国家に対する万全の信頼感

最近、ミクシィにやや飽きてきたこともあって、こちらでもちょくちょく日記を書いていこうと思います。


卓球のこと、身体のこと、いろいろありますので、少しずつ。



テレビで、凶悪事件の時効制度見直しについての話題が取り上げられていた。


未青年の凶悪犯罪への厳罰化の議論でも同じだけど、僕はいつも、こういった論調には躊躇してしまう。


それはたぶん、そういった論調が「国家に対する万全の信頼感」に基づいているからだ。


変なことを言うな、と怒られそうだ。


年金問題をはじめとして、国家に対する信頼感は地に落ちているではないか、と。


しかし、国家がまるで信頼に値しないものだと本気で思う人が、
凶悪犯罪の厳罰化や時効制度の見直しを望むだろうか?


信頼できない国家権力による「厳罰」や、エンドポイントのない捜査ほど、おそろしいものはないんじゃないか、と思うのだ。


法の歴史には明るくないけれど、
少なくとも法とは、「国家権力の暴走を抑制する」という側面をもっているものだ。


厳罰化、時効制度の見直しといった議論が国民の側から出てくるためには、
その国家システムに対する根本的な信頼感(それはまさに、子が親に寄せるような全幅の)が必要だ。



でも、この国は、そこまで信用できる国だろうか?