台湾と日本


春先の放送されたNHK制作「NHKスペシャル/シリーズ・JAPANデビュー」第一回「アジアの“一等国”」の問題は、ご存知の方も多いかと思う。ご存知ない方は、以下のリンクなどを参照ください。「NHK アジア 一等国 台湾」などでググれば、いろんな記事にたどりつけます。


http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200904090001/


個人的には、NHKが中国共産党の言いなりになっている、情報操作だ、などというのは幼児的な妄言(と言って悪ければ被害妄想)だと思っているんだけど、それがどこまで操作的なものかどうかということは疑問だ。


つまり、NHKの放送が、プチ右翼の皆さんが言うように“反日的”“自虐的”であるかどうか、ということと、NHKが意図的な情報操作を行おうとしているのかどうか、さらにいえば、その情報操作が国家的な圧力によるものなのかどうか、ということは別次元の問題である。ということだ。


個人的な感想を述べさせてもらえれば、NHKの放送は、ほとんど現場レベルの判断で制作されたものなんじゃないかと思っている。中国共産党はおろか、局レベルの圧力すら、かかっているかどうか怪しい。


むしろ私は、こうした「捏造」レベルといっていいような制作物が、国家的陰謀ではなく個人的な意思の集合によって世に出てしまう、ということにおそろしさを覚えるのである。そうじゃなく、国家的な圧力、陰謀があった、それによって現場は偏向した編集を余儀なくされたのだ、、、という事実が明るみに出たとすれば、そのほうがまだ救われる、とさえ思う。


でも、たぶんそうじゃない、と、メディア業界の製作現場の片隅にいる私は思う。


制作の現場というのは蛸壺である。何が正しく、何が間違っているかを判断するかは容易ではない。いや、より正確に言うなら、「自分が行っている正否の判断」の正当性を疑うことが非常に難しいのが「現場」という場所なのだ。


でも、実はそんなことは、メディア制作の現場に限らず、あらゆる「現場」に言えることだ。


医療であれ、介護であれ、製造であれ、サービスであれ、それがどんな業界であっても、「現場」で働く人間は多くのグレーゾーンを抱えているし、そこで自分が行っている判断の正当性を心のどこかで疑っている。


「自分の判断は誤っているかもしれない」という意識は、そうしたありとあらゆる「現場」で働く良心的な人間にとって、必須のスタンスであり、心構えである。


そうしたわきまえを持たない傲慢な人間は、ときに「極端な間違え」を犯し、現場を破綻させる。あるいは、現場は破綻しない代わりに、市場において見放されたり、最悪の場合は、市場での「破綻」にいたる。


雪印船場吉兆耐震強度偽装といった事故の背景にあったのは、そういう種類の「現場的傲慢さ」であったと私は考えている。現場的傲慢さがほかならぬ現場で容認され続けたために、市場という公の場で破綻してしまったのだ。


そして私は、メディアの偏向報道についても、そのような「現場的傲慢さ」がもたらした市場における破綻のひとつの形ではないか、と考えている。


● Altered


そういう「現場的傲慢さ」が横溢する世の中にあって、消費者にできることはできるだけ多様なソースを持つ、ということだ。もちろん多様、というのは「異なる」ということが重要で、同質のものをたくさんもっていても仕方がない。できるだけ「異なったソース」を見つける、ということが必要だ。


NHKスペシャルの問題でいえば、NHKスペシャルの偏向について批判的な見方をする情報というのは、もちろん「異なる見方」の1つではあるが、それをたくさん集めても仕方がない、ということだ。


たとえば、こうした問題が顕在化するずっと前、10年、20年前の雑誌、新聞の台湾関連の記事にあたるのも1つの手だろう。


もちろん、リアルタイムな情報発信のなかにも、これらと異なる文脈のソースを求めることは不可能ではない。


たとえば、先日、中野で観た映画「台湾人生」は、台湾にほれた監督の、実に個人的な欲求に基づいて撮られたドキュメンタリーだ。


http://www.taiwan-jinsei.com/


政治色は薄めだが、日本統治について台湾人がどのように捉えているかということについて、「異なる視点」を提供してくれる映画だ。