幸福論

幸福論 ―精神科医の見た心のバランス (講談社現代新書)

幸福論 ―精神科医の見た心のバランス (講談社現代新書)

精神科医春日武彦さんの書く幸福論。

私のサイトも「小確幸」ということで、「幸せ」をテーマにしているから、読まないわけにはいかない。

春日さんの書く「幸福論」に、私はほとんど異論がない。趣味の違いを除いては、私が考えるところの「幸せ」を、うまい具合に描き出しているように思えた。

世界を能天気に肯定するわけでもなければ、テロリストのように憎悪するわけでもなく、もっとさりげなく世界と折り合いをつける方法はある筈なのである。それを捜し求め、遂行していくところに幸福は立ち現れるだろう。(本書より)

 「〜ある筈なのである」というところが、とっても良いと私は思った。「私は幸福とは何かを知っている。ほら、すぐ底に君の幸福は転がっているよ!」などという反吐の出るような物言いのちょうど反対側に、春日さんの言葉はあるように感じた。


 また、感銘を受けたのは春日さんがお風呂に入りながら考えたという「定型」についてだ。

もしも幸福というものが現実をありのまま受け入れられるだけの「力強さ」を意味するとしたら、人生において定型に相当するスタイルが存在すれば幸福に近づけるのではないか? と。その定型とは、人生が限りあるもので遅かれ早かれ死を迎えるという自覚を意味するのかもしれない。学業や義務をきちんと果たす、つまりきちんと社会人としての責務を全うしようとする意思のことを意味するのかもしれない。

 <中略>

 いずれにせよ何らかの確固としたものを心の中に定めておかないと、ヒトは定型を武器として持つことが出来ず、結局のところ箍(たが)の外れた夢想へ逃げ込むしかなくなりそうな気がしてしまうのである。

 僕にとっての「定型」とは何か。

 これは大きな課題である。陳腐な「定型」では、使っている本人が照れくさくてそれをまっとうすることは難しいだろう。かといって、小難しく、ひねくれていても、それは「定型」として機能しない。「定型」とは、さりげなく、それでいて確信に満ちたものであるのだろう。
 私はどうやらいまだ自分の「定型」を見出していない。「定型」らしきものを持ってはいるかもしれないが、どうやら私がまだ知らぬ、さりげない「定型」というのはこの世に存在するようなのである。
 もしそんなものがあるのなら、ぜひとも60歳になるまでに見つけてみたい。