いかに死ぬか、いかに生きるか

朝一で大宮に出勤。学会取材を終えて築地のS病院に移動。午後一はS病院でインタビューを収録し、さらに恵比寿に移動。楽しみにしていたN医師へのインタビューを行った。


N医師は、名前と顔を見れば誰でも知っているであろう精神科医
この日は小さな企画について口述筆記のような形でのインタビューにご協力願ったのだが、当初の目論見通り、もう少し大きな企画に結び付けられそうなお話を伺えた。


よく言われることだが、僕らの日常からは「死」が執拗に隠蔽されている。
死は忌み嫌われ、隠され、もはや僕らは自分が死を恐れていることすら自覚できなくなっている。


これは、いい悪いの問題ではない。


そもそも、僕らの文化が死を隠蔽しようとするのは、そうしなければ生きられないからだ。
僕らは、生々しい死に触れ、感じることに耐えられない。自分が死ぬ、ということが想像できない。


しかし、過剰に死を隠蔽し続ける文化は、僕らが「まっとう」に生きることを妨げる。


今の時代が「生きにくさ」に溢れているとすれば、それはおそらく、死が過剰に隠蔽されているからだ。


「いかに生きるか」がわからないのは、「いかに死ぬか」がわからないからだ。それ以外に理由はない。

そんな話だった。



だからどうだって話は、もう少し後の話。
とりあえずは、そのあたりから始めるしかないんじゃないの? と僕は思う。


○○

先週、長野で母校の卓球合宿に参加した。
それだけがきっかけ、ということではないけれど、練習を再開することにした。
31歳。まだ31歳。もう31歳。
でも、なんとなく、すごく上手くなれそうな予感がしている。