福岡伸一『もう牛を食べても安心か』

もう牛を食べても安心か (文春新書)

もう牛を食べても安心か (文春新書)

少し前の本なのだが、かなり感銘を受けたのでご紹介します。


本書のメインテーマは「狂牛病」対策についての国家規模の過失−−すでに犯してしまったものと今なお進行中のものーーである、といってよいだろう。


狂牛病の病原体は異常プリオンタンパク質である」

これはノーベル賞受賞科学者・プルシナーの仮説である。しかし、少なくとも政治レベルではこの仮説は完全に一人歩きを始めている。生後20か月未満の牛を検査対象から外す全頭検査の解除、脳・脊髄などの「特定危険部位」を取り除けば安全は保たれる、あるいは全頭検査に固執するのは科学的知識の不足による蒙昧な見解だ・・・・・・これらはすべて、危険極まりない暴挙だと福岡氏は断ずる。


もちろんそこにはアメリカからの「外圧」を中心とする政治的事情についての考察が存在するのだが、それより何より、著者が声高に訴えるのは、狂牛病は、いまだ「科学的」次元において、正体不明かつ強力な殺傷力を持つ伝染病である、という端的な事実である。


プリオン病原体説はあくまで仮説に過ぎない。有力だが、かなり穴のある仮説だ。反駁される可能性は決して低くない。本書を読んで確信したのだが、プリオン病原体説を強力に推し進め、それによってノーベル賞まで獲得したプルシナーその人は、おそらく(全頭検査を行っていない)アメリカ産牛肉を自分や、家族の食卓には供さないであろう、ということだ。

福岡氏は舌鋒するどく、そのことを指摘する。ロックフェラー、ハーバードを経て青学の研究所教授につく一線の研究者による緊急性の高い主張。本書の一番の社会的価値はそこにつきるだろう。




一方で、一般読者である私としては、本書のもう1つの「縦糸」に目を向けずにはおれない。


異常プリオン病原体説を強行に推し進めてノーベル賞を受賞したプルシナーと、「動的平衡」という風変わりなモデルを実証し、生命学に一大パラダイムチェンジをもたらしたにもかかわらず、栄光とは無縁だったルドルフ・シェーンハイマーという2人の科学者の対比。


2人の科学者の業績の詳しい内容は本書を参照してほしいが、知れば知るほど、この2人の科学者としてのあり方は対照的なのだ。


シェーンハイマーが行った実証は、「食物が体内でどのように代謝されるか」という疑問について、分子レベルの知見を提供した。「安定同位体」といういわばマーカーのついて炭素や窒素などの分子を用い、食物がどこに、どのように吸収されるのかを調べた。


その結果、分子は高速度で身体の構成分子に入り込み、もともと身体を構成していた分子は、逆に高速度で分解され、排出されていくことがわかった。身体は食物(燃料)を燃やす溶鉱炉でもなければ、トンネルでもない。身体はそのような安定的な構造体ではなく、「流れ」である。シェーンハイマーはそのように結論づける。


身体は一見実体であるかのように見える。しかし分子レベルで見れば、たまたまそこに密度高く凝集している分子の澱みに過ぎない。しかもその澱みは高速度で入れ替わっている。3か月もすれば、すべてが入れ替わる。


シェーンハイマーはこの知見を「動的平衡」と名付けた。「行く川の流れはたえずしてまたもとの流れにあらず」。我々にとってある意味でもっともなじみの深い人間観を、厳密な科学的研究の中で発見し、実証した男、シェーンハイマー。彼はその研究者として絶頂期であるはずであった1941年、謎の自死を遂げる。「個人的な葛藤」がその背景にあった、といわれるが誰も本当のことはわからない。「動的平衡」という画期的な発見には、ノーベル賞はおろか、何の栄誉も与えられず、シェーンハイマーの名は生化学の教科書にすら、その名を見つけることはできない。



スタンリー・プルシナーのことをよくいう研究者を知らない、と著者ははっきり言い切っている。ノーベル賞、栄誉、こういった「冠」をストレートに、露骨に求める。そのためには極限までギリギリの(あるいは道を踏み外した?)手段も厭わない。本書から読者が読み取れるのは、そうした印象だろう。

プルシナーがなぜそこまで研究者の間で評判が悪いのか? なぜそんな研究者がノーベル賞を獲得できたのか? プルシナーの「プリオン仮説」には本当に価値がないのか?


そのあたりの疑問には、本書および、その後発行された『プリオン説はほんとうか?』が答えてくれるだろう。ここではあまり彼の科学的業績には踏み込まないことにする。またそれは、門外漢である人間には即断できない、微妙な問題をはらんでいるような気がするからだ。

しかし、本書から、科学的知識のない素人である我々がはっきりと読み取れることがある。それは、志半ばでこの世をさったシェーンハイマーとの対比の中ではっきりと浮き彫りになることでもある。


プルシナーは、とびっきりの山師だ。もちろん、山師にはいろんな意味がある。僕はここで、プルシナーが詐欺師だ、嘘つきだ、と言っているわけではない。先にも述べたように、その答えを出すほどの知識も知見も、僕は持っていない。


山師、というのは野心家である、ということだ。プルシナーは野心家だ。それもとびっきりの。彼は学術誌に発表する前に、自説を夕刊紙にリークしてしまう。情報操作だ、と言われても彼は動じない。彼は後ろめたさのかけらも見せず、こう言い放ったという。

「ぬるいことを抜かすな。“プリオン”という名をつけただけで、ほらみろ、金が集まりだした」


プリオン仮説を反駁するようなデータが出てきても彼は折れない。ありとあらゆる研究者的「裏技」を駆使して食い下がる。食い下がっていくうちに、プリオン仮説に有利なデータが登場する。


結果、現在のところ、市井ではプリオン仮説は有力だし、ノーベル賞を受賞してから10年近くが経つ今も、彼のプリオン仮説は反駁されるにはいたっていない。この事実は、決して彼の「口八丁手八丁」の結果ではないだろう。科学の世界はそこまで甘くない。真実ではないにしても、彼のプリオン仮説は、真実に近いところに近接しているのだろう。



しかし、だからこそ逆に、僕はこの男の強運についても思いをはせてしまう。プルシナーのブルドーザーのような強引さを持ってしても、科学的証明の前には惨敗を喫する可能性をはらんでいたはずだ。しかしそうはならなかった。そこにあったのは、きっと強運、あるいはそれを引き寄せた彼の意志の力であったのだ。


ルドルフ・シェーンハイマーとスタンリー・プルシナー。対照的なこの2人は、いずれも「科学者」なのだ。