やっぱりすごい内田先生


神戸女学院内田樹先生のbrogは、このページに迷い込んだ方はたいていご覧になっているもの、と考えている。

僕自身の思考パターンの多くは内田先生の著作によっているし、そこに何らかの共鳴を感じる方が僕のbrogを読んでいるとすれば、たぶん内田さんの書かれていることにも共鳴される可能性は高いだろうと思う。だから、僕はあんまり内田先生のページにリンクを貼らない。貼らなくてもたぶん読んでいるから。


けれど、今日はトラバを飛ばさずにはおれなかった。

ちょうど、前日の日記のように、山中先生ショックを受けたところであったので、余計にビビッドに感じられたのだ。


ミリアム館で昇天
http://blog.tatsuru.com/2007/02/18_2207.php


「自分の限界を超える」やり方を教えることはある程度技術のある教師ならできる(それさえできない教師も多いが)。

けれども、一度「自分の限界を超える」ことができた人間は、「自分の限界を超えたやり方」に固執するようになる。

禁欲的な走り込みやウェイトトレーニングで「限界を超えた」と思う人間は、そのあとも限界に突き当たるたびに同じことを繰り返す。

しかし、ほんとうにすぐれた教師は「自分の限界を超えるやり方」に固執してはならないということを教える。

「変化する仕方そのものを変化させる」ことがエンドレスの自己超克のためには必要なのである。

だが、「君たちは自分の限界を超える仕方そのものの限界を絶えず超えてゆかなければならない」ということを学び始めたばかりの人々に告げる勇気のある教師はきわめて少ない。

それは教師自身の教えの妥当性を教師自身が否定することのように思えるからである(ほんとは違うんだけど)。

僕らは変化する。けれど、その変化の仕方は、変化する主体は知らない。そういう不思議な変化の仕方を、僕らは日々あたりまえのように行っている(と、いいんだけどね)。



他者との出会いによる自己解体と再構築、といえば「キレイなお話」なのだが、それが意味することは苛烈な体験である。


裏切りや憎悪、嫌悪。ありとあらゆる苛烈な関係性。そういった「悪しきモノ」を必然的に含む他者との関係性を、できる限り感じなくとも生きていけるように、現代社会は構造化されている。


そんなことはない、自分はかつてあるいは今も、苛烈な関係性の中を生きざるを得ない状況にいる。かつての日本社会が大切にしていたのは、もっと和に満ちあふれた世の中だったはずではないか。私たちの生きているのはかつてないほど苛烈な社会ではないか、という向きもいらっしゃるかもしれない。


それはそれで、一面の真実なのだと思う。つまり、「私たちの生きている社会は苛烈である」ということと、「私たちの社会は苛烈さをできる限り避けられるよう、システム化されている」という言説は、なんと同時に成り立つのだということだ。


そして、「苛烈さをできる限り避けられるよう、システム化されている」社会において、人間は成長の機会を極限まで奪われている、ということも言える。


だから今、この世に生きていて、傷つき、自己を解体し、再構築できている主体であるところの「あなた」は、むしろ幸福なのだ、と。


つい先日、ある先生から伺ったそういう話とも、内田先生のお話や、山中先生のお話はリンクしているのだ。