努力と根性について

卓球の全日本監督が愛ちゃんの「根性を鍛える」とかのたまっていた。

愛ちゃんの卓球の実力は頭打ちだと思うし、
全日本を預かる立場であれば、スポンサー受けも考えて愛ちゃんを引き上げようとする気持ちもわからないではない。

でも、それこそ「子供でもわかるような論理」において、全日本・近藤監督の方針は間違っていると私は思う。



スポーツや芸事における努力、根性、あるいは練習量(反復練習)の問題についてはいつか整理して書いてみたいと思っていたので、ここらで少しまとめてみる。

まず、あまりスポーツトレーニングの問題になじみのない方のために問題を整理してみよう。

努力、根性という言葉がスポーツにおいて使われるのは、練習、トレーニングの文脈においてである。そしてさらに、それらは「つらいこと、嫌なことを耐え、我慢する」体験として語られる。

努力とは、嫌で、めんどくさくて、ほかにやりたいことがあるのにそれを我慢して「やるべきこと」に取り組むことであり、根性とは、それをなしとげる精神であると説明される。

ここで注意すべきなのは、「やるべきこと」の中身は自明なものとして問われていない、ということである。「やるべきことははっきりしている。あとはそれをやるか、やらないかだ」という思想が、スポーツにおける努力、根性というワーディングからは透けて見える。

武術研究者である甲野のスポーツトレーニング批判は、もっぱらこうした、無条件に前提を受け入れてしまう批評性の欠如に向けられていると私は考えている。端的にいうなら「そのトレーニングでいいの?」という問い掛けが、スポーツトレーニングの現場には欠如しているのではないかということだ。

たとえば甲野は反復練習や筋力トレーニングを終始一貫、批判している。これらは技術の質的転換に結び付かず、むしろあるレベルでの技術の固定化を招くだけだというわけだ。

私は、スポーツトレーニングの常識も、甲野の主張も、多少のレベルの違いはあれ、ともに有効な仮説であろうと考えている。

努力、根性の強調は、たしかにしばしばトレーニング内容の空洞化を招く。しかしながら、努力、根性の力を「信じる」ことによって、一歩も前に進めなかった人間が、よろめきながら足を踏み出すことができるようになることがある。

例えば私は中学生時代、何を思ったのか、「優勝」以外を目指してはいけない、という教条に取り付かれた。極端なスポーツ音痴であった私は、自分が優勝するためには、他の人間よりも努力で上回らなければならないと考えた。文字通り、「人の三倍」練習したのだ。筋力トレーニングも、横の人間が30回やっていたら、必ず60回、90回やるようにした。

中学2年生〜3年生にかけて、僕の練習量は同年代で間違いなくトップクラスだったと思う。ほんとに、寝ている時間以外は卓球のことしか考えていなかった。

結果、僕の成績は市で3位だった。僕は自分の成績には納得していた。なぜなら僕の運動能力、才能は出場選手中最低クラスだという確信があったし、人の倍練習してやっと人並という自分が市の大会とはいえ3位になれたのは、単に他の人間の努力がたりなかった結果に過ぎないと考えていたからだ。



さて、中学時代の僕が、いかに「練習」というものを信仰していたのか、ということについては我ながら驚くばかりである。僕は練習が自分の才能のなさを埋めてくれることを信じるばかりで、練習の中身についてはほとんど吟味することはなかった。

でも、一方では、この「信仰」がなかったら、僕は一歩足りとも前に進めなかっただろうな、とも思うのだ。

今の僕は当時とは比べものにならないくらい冷静に、しかも当時よりも熱く、技術を研究することができている。単純に比較するなら、今の僕のやり方のほうが、以前の僕よりも効率的で、楽しく卓球に取り組んでいる。

でも、だからといって中学生時代の僕のような、「信仰」のようなものが生み出すものを否定することもないんじゃないかと思うのだ。

努力にしても、根性にしても、所詮は言葉に過ぎない。反復練習から劇的な変化が生じることもあるのは、反復練習という言葉が指し示す内容が一人ひとり違うからに過ぎない。


はっきりしているのは、卓球全日本監督の近藤さんは引退したほうがよいということと、愛ちゃんはしばらく、中田英寿のように自分探しの旅に出してあげたほうがよいということだ。いや、一番自分探しが必要なのは、監督さんかもしれない。