安倍総理は「私」である


安倍晋三首相の突然の辞任を受けて、いろんな方々がコメントをしている。テレビも、mixiも、どこを見ても、まったく理解できない、無責任だ、無能だ、と散々である。

私も、なぜ彼が今のタイミングで辞めたのかはよくわからないし、彼が無能で無責任であることも間違いないだろうと思っている。

彼の辞任報道のあと、株価は一時的に急騰し、その後すぐに冷めて、結局は前日終値をやや下回ったそうである。「あんなダメなやつが辞めたらちょっとは上がるんじゃないか」という勢いあまった見通しが、「待てよ、よく考えたらもともとたいした影響力なかったんじゃねえの?」という静観論に地位を譲ったというところだろう。



さて、私が思うのは、安倍総理をこきおろす身振りの、気味が悪いほどの同型性のことである。

彼の無責任さ、無能さ、空気の読めなさは、おそらくは坊ちゃん育ち、温室育ちに起因しているのだろう。それはご指摘のとおりである。

しかし、それは「私」も同じことである。

温室育ちの「私」は、常に、悪いこと、都合の悪いことは「悪いやつのせい」だと考えるのである。

だから「私」たちは、口々に彼のことをののしるのだ。

無能!

 バカ!
   国民のほうを向いていない!
 
 無責任だ! と。

しかし、彼の無能さをあざ笑う「私」のうちいったい何人が、逆境にあってなお、自分の責任を果たすことができる「ご立派」な人間なのだろうか?

そのような自問を向ける習慣を失ったことが、「彼」を首相にまで押し上げた、ということではないのか。



彼の体調は、先週の時点で非常に悪化していたようだ。おそらくはストレスのせいであろう。朝青龍みたいな状態だったのかもしれない。

そのようなひ弱さもまた、「私」に共通することである。



私の短い社会経験のなかでも、謎の行動、無責任な行動、無意味な行動を、自分本位で行ってしまう人間に大量に遭遇している。

でも、それを「他人事」と切り捨てるには、わが身について目をつむらなければならない。いたらぬわが身に目をつむることによって、ようやく彼らのことを批判できるわけであるが、ほかならぬその身振りそのものが、そのような無責任さの温床となっているのではなかろうか。

安倍総理は、そういう意味で、あまりにも「私」に似ているのである。