『生物と無生物のあいだ』

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)


非常におもしろい科学読み物で、皆さんにお勧めしたい本ではあるのだが、
今日取り上げたいと思ったのは、この本に過剰反応する、「自称理系」の皆さんのことである。

リンク先を開いて、実にレビューを見ていてもらうとわかるが、実に半分くらいの人が酷評している。
酷評の理由を大まかに整理してみると、だいたい以下のようなものだ。


・過去にすでに述べられたことしか書かれておらず、新たな情報がない。
・文学的修辞ばかりで、中身がない。
・ちょっとでも理系の知識があれば、常識に属することばかりで実に退屈。


さて、本書で書かれている内容が実際にそうなのかどうか、「ど文系」人間の私にはいまひとつ判断がつかない。
しかしながら、福岡氏の文章の出所・出典はおおむね明らかになっており、それらの多くが数十年前〜数年前に公表済みの情報なわけなのだから、理系にとっての常識なのかどうかはともかく、本書に最先端科学がもたらした「新たな情報がない」というのはおそらくは正しいのであろう。


問題は「で?」である。

新たな情報がないからどうだというのか? 酷評している方々は、「新たな情報がない=退屈」という図式を信じて疑わないようである。しかし、両者に論理的な結びつきなどない。新たな情報が含まれていない本がつまらないのだとすれば、5年前に出た本など誰も読まないということになってしまう。でも、実際には同じ人が、同じ本を何回も読み、楽しんでいる。

僕はむしろ、この本を酷評する、彼らのありようが興味深い。

たとえば彼らは、知識は蓄積されていくもの、と信じているようだ。
たしかに、科学的なパラダイムの「内部」で知識は蓄積されていく。
しかし、その蓄積は、パラダイムの外部では通用しないし、パラダイムが廃棄されてしまうと一瞬にして塵芥に帰してしまう。彼らは、自分たちが後生大事にしている「知識」が塵芥に帰する可能性に気づいているのだろうか?

もう1つ。彼らはスタイル(文体)というのを、単なる修辞に過ぎない、と考えているようだ。
スタイル(文体)というのは、情報という「価値あるもの」を伝える乗り物に過ぎない、と考えているようだ。

もしそうだとすれば、どうしてスタイル(文体)はこれほど多様なのだろうか?
あるいは、どうして、100年を超えて読まれる文章が存在するのだろうか?

もし、情報にこそ価値があるならば、スタイルなど不要である。しかし、人類はスタイル(文体)を豊かにする道を選んできた。

なぜか?

それは、われわれが感受できる「情報」はあまねく、幻想に過ぎないからだ。
人は、スタイルを通してしか情報を感受できず、そのスタイルはあまりにも多様なのである。