『暗黒館の殺人』読了

暗黒館の殺人 (上) (講談社ノベルス)

暗黒館の殺人 (上) (講談社ノベルス)

暗黒館の殺人 (下) (講談社ノベルス)

暗黒館の殺人 (下) (講談社ノベルス)

ううむ。

 決して「悪い」とは言わない。

 けれど、『十角館』『時計館』のような、いまでは天然記念物といってしまいたくなるような「本格ミステリ」の旗手・綾辻行人大先生の最新作としてはちょっと食い足りない気がしました。これだけ長いのだから、もう何段階か、「オォッ!」というカタルシスがほしかった。

 ここでいうカタルシスとは意外な犯人とか奇想天外な仕掛けとか、そういうことではなくて、物語の全編に散りばめられた断片が、読み終えた時にあたかもジグソーパズルのようにきれいに収まる、小説の作り全体のことである。

 読んでいて「ん?」と思うが何となく読み飛ばしてしまった箇所。しかし、やはりどこか頭の隅っこでくすぶっている。。。そういうものが、最後の最後で「ドカン!」と来て、そののちに美しく、整除され、秩序化される。そういうものを私は推理小説に求めているのである。

 このことは、くしくも今日仕事でご一緒した精神科医春日武彦先生もおっしゃっておられた。(今日のお仕事は春日先生と内田樹先生というスペシャル対談の収録だったのだ)

 私たちの身体には「ノイズ」を検知する能力が備わっている。

 その能力は、デジタル的に何かの「有無」を検知する能力ではなく、アナログ的に何かの「量」を検知する能力である。そして前者より後者の能力が「ノイズ」検知には有効であり、私たちの生存戦略上でも、重要な能力なのである。

 このことを春日先生は「間違い探し」の比喩で上手に語っておられた。それはつまり、雑誌の付録なんかで2枚の絵の違うところを探しなさい、といったときに一番難しいのはどういう「間違いか」というお話だった。春日先生がおっしゃるには、難しいのは、こちらにあって、あちらにない、といった「有無」が問題となる「間違い」ではなく、「程度」が問題となる「間違い」だという。

 つまり、腕があるかないかなんてのは誰が見てもわかるんだけど、「腕の角度が違う」というのを発見するのは難しいように、例えば「髪の長さが違う」「目の大きさが違う」といった「間違い」こそが、検出の難しい間違いなのだというわけだ。

 これらは「量的」で「アナログ」な情報差異である。そして、こうしたものの差異を言語化することは非常に難しいが、しかしそれゆえに、私たちの生存には死活的に重要な問題を提供するものでもあるということだ。

 ある人にあったとき、その人が自分にとって危害を加えうる人間か否かを判断しなければならない。例えばこういうときこそ、人間に備わった「アナログ情報的差異検出機能」を総動員させなければならないときである。

 なぜなら、ある人間が自分にとって「悪人」であるかどうかは、ほとんどの場合、決定的な要素の存在、あるいは欠落によって生じるような問題ではないからだ。だから、デジタル的な検出ではなんら普通の人間と「悪人」の間の差異を検出することができない。どんな悪人だって、善人だって、その人間を構成している「材料」にはさほどの違いはない。

 違うのは、その「材料の量」なのである。ある人間が自分にとって問題となるのはたいてい、その人間を構成する何かが「過剰」であるか「過少」であるかのいずれかであり、それを検出するのはアナログ検出機構だけなのである。

 問題はアナログ検出機構で抽出された情報、差異は、非常に言語化しにくいということだ。このため、私たちはせっかく得た情報を無視してしまうことが多い。また、そうでなくてもアナログ情報はとかく軽視されがちだ。

 それは、アナログ情報を言葉に直すと、バカみたいな物言いにしかならないからである。
 「何となくやな感じ」とか「まあいいんじゃないかと思う」「たぶん平気だろう」「これくらいでOK」とか、そんな言い方でしか、アナログ情報は言語化できない。

 それゆえに、ある種の人間は本当に大切な決定場面で、アナログ情報の「囁き」を無視してしまうことがある。

 内田先生も、春日先生も、そのことをつとに戒めておられた。

 ・・・は! 暗黒館の書評するの、忘れちゃった。

 まあ、綾辻行人ファンなら、買わざるを得ない1冊だと思いますが、それ以外の人にはさほどお勧めできない内容でした。しかもよく考えたらネタばれになるからまともな書評なんか書けないですよね。ともかく、仕掛けそのものよりも「死生観」の話がおもしろい、という意味では、京極先生のシリーズ最新作『陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず)』にも共通するところはありますかな。

陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)

陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)