自己評価について
慣れていないのでコメントを二重投稿してしまいました^^;
さて、自己評価についてである。
自分で自分のことを評価するのであるから、さぞかし甘い採点をつけてしまいそうなものだが、さにあらず。世の中には自己評価が低くて苦しんでいる人が多いのである。かくいう私もご他聞にもれず、相当自己評価の低い人間であった。
「であった」などというと今は違うのかと問われそうだが、やっぱり今でも自己評価はそう高くはない。ただ、最近、ある「からくり」を肝に銘じるようになってから、あんまりそういう風には考えなくなったということである。
自己評価の低い人間というのは、自分の身に起こる不幸や苛立ちや気に食わないことの原因を自分に見出す。もちろん、「そういうふうに原因を他に転嫁しない私」という自己評価も同時に行って気持ちよくなったりもしているのだが、やっぱり、こういう思考法というのはあまり気分がよろしくない。
では、そんな気分のよくない思考法をなぜ選択するのか? というと、これはなかなか事情が込み入っているのである。
自己評価の低い人間は往々にして、自分はそれなりには恵まれている、という信念を持っている。自分に起こる不幸は、一重に自分の至らなさであったり、容姿であったり、性格の悪さであったり、要するに「自分が駄目だと思うところ」が原因であり、「それさえなければ、きっと幸福だった」と夢想するのである。
この思考が、実は自己評価の低い人間を支えている。
言い換えれば、自己評価の低い人間とは、自分が選択した自分にとってのある要素(例えば容姿であり、性格である)を極端に低く見積もることによって、その他の要素に含まれているかもしれない問題点に目を向けない、そういう自己防御戦略をとった人間のことなのである。そして、さらにいうなら、そのように低く自己評価した要素についても、それをあまりにも低く評価しておきながら、周囲からの「そんなことないよ」という言葉を待ち望んでいたりもするのである。
と、ここまで考えると、ことの「カラクリ」が見えてくる。つまりは、そのように低く見積もられた「要素」というのは、実はその人にとって、どうでもいい項目である可能性が高いということだ。むしろ、もしも破綻していたら致命的であるような要素に目を向けない、向けたくないがために、本心ではどうでもいいと思っているような顔のことや性格のことなんかを気にしているフリをしているわけである。
まことに、よくできた自己防御装置である。
この話、真剣に考え始めると鬱になるので、適当に切り上げようね。
要するに、私たちの自己評価(特に低く見積もるほう)っていうのは、所詮は防衛機制だというお話でした。