時間の話、続き

 新潟ではまだ、地震被害が続いている。

 イラクでは、またもや人質が殺されたようだ。

 この「彼」の「すみません、日本に帰りたいです」という言葉がひっかかっていたが、ランディさんがブログで、同じところに注目して書かれていた。
http://blog.ameba.jp/randy/archives/000186.html

 そうだ。彼はなぜか謝り、そしてあきらめていたのだ。
 自分の行動の無軌道っぷりを説明できないことを謝り、そして、それが説明できない限り、自分は救われないとあきらめていたのだ。
 しかし、私たちの誰が、自分の行動を逐一説明する事ができるだろう?
 というよりも、自分の行動の、その理由を逐一説明できることが、そんなに偉いことなのだろうか?
 説明できない人間は、理由のない人間は、存在してはいけないのだろうか?

 そんなはずはない。
 私たちに存在理由があるのか否か、それは私にはわからないが、私たちの存在理由について、私はただ1つ、断言してよいだろう事実を知っている。

 それは、私たちが、自分たちの存在理由について正確には知らない、ということである。

 あるのか、ないのか、それがどんなものなのか、私たちにはわからない。
 だから、適当なものにそれを仮託して、日常を生きる。
 それが私たちの「生」の大まかなあり方だろう。

 新潟でも、イラクでも、私たちの周囲でも、それぞれ時間は流れている。
 それゆえ、私たちは自分の、他人の「生」を正確に認知することができない。
 それは、時が止まっていれば認知できる、といった類の話ではない。
 私たちの生は、時に刻まれているがゆえの「生」であり、時に刻まれているがゆえに、認知が届かないのである。

 優れた画家は時をキャンバスに刻み、卓越した演奏家は、聴衆と自分の間に時間を創造する。

 しかし、イラクの「彼」は?
 彼の「生」に残されていた時間は、あまりにも少なかった。
 あれじゃあ、何もできやしない。
 あんまりにも悲惨だ。

 しかし、「理由のない」彼の存在に、この国はどうやらかなり冷淡であるらしい。

 時の止まった人間にとって、「理由がない」ことは「存在しない」ことと同義だからだ。

 時が動くことが必要だ。そうすれば、「理由がない」ことは「存在する」ことの条件にすら、なりうるのだから。