3日前の話なのだが、幕張に取材に行った時のこと、電車の中でICレコーダーを忘れてきたことに気づく。

この日は学会取材だったのだが、インタビュー収録や取材時には、近頃メモがわりに常時携帯してきた。学会取材などでは、聞き逃したところや、現地で理解できなかった部分を聴きなおすときなどにありがたいツールである。かなりの使用頻度だったので、不安になった。

しかし忘れたものは仕方がない。1年前までは、丁寧にノートをとっていたのだ。そう思いなおしてカバンの中を見ると、ノートを忘れたことに気がつく。

・・・。

まあ、仕方がない。駅についてから、ノートとペットボトルの飲みものを買おうとコンビニに入る。レジに来たところで、財布を忘れたことが判明する。

いい加減自分に腹が立ってきたが、ここは高速回転して私の頭脳が「Suica」での支払いを選択する。残金は2000円くらいあったので、支払いを済ませても帰りの電車賃くらいは残るだろう。

とまあ、そんなぼけぼけな一日だったのだが、本題はここからである。

その日の取材、私は近年にない集中力を発揮したのだ。

眠くなるなどとんでもない。話はずいずい理解できるし、聞いてるはしからノートのメモは進み、そのまま記事にできるようなノートができあがった。

そう、つまりこういうことだ。

ICレコーダーのような強力なツールを持った人間の身体は、そのツールが担いうる能力については、自らのリソースを封印するように働くのだ。あたかも、自動車に乗る人間の足が退化するように、ICレコーダーを持った人間の「聴く」力は、不可避的に退化する。

馬鹿と道具は使いよう、とはよくいったものだ。

どちらも使い方を間違えると、人の能力を削ってしまうのだ。