体調が悪い。

4、5日前から例によって口内炎がひどくなった。

体調が悪くなると、思考もネガティヴな方向に行くのは仕方がないことだが、やはりたいそう気分が悪い。

田臥選手のNBA入やら、いろいろと書きたいことは沢山あるのだが、とりあえず1行でも書いておかないとまた更新ペースがずるずる落ちてしまうだろうから、書いておく。

しかし、この2,3日、いったい何をやっていたのか全然思い出せない。
仕事をバリバリやってることはたしかなのだが。。。

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

『死と身体』を読む。

 すごく読みやすい本。
 講演の採録なのだが、難解な話題が流れるように読める。
 『エクリ』などもそうだが、やはり講義録というのは、ライブ感があっていいよね(読んでないけど)。

 関心をひいたのは「死者」と「葬送」の問題。内田さんは、第1次世界大戦の戦死者の「弔い」に「失敗」したことによって、第2次世界大戦でさらに大きな戦死者を産んでしまった、と分析している。

 そして、レヴィナスガルシア・マルケスラカンといった「戦後世代」の思想家たちの仕事というのは、そうした「膨大な数の死者をいかに弔うか」ということを、喫緊の思想的課題としたのではないか、という展開になる。

 要するに、「戦死者」を「護国の英雄」として弔うやり方では、ある一定数以上の死者を弔うことはできない。それでは「英雄の無念をはらす聖戦」というプロットを拒絶できない。しかし一方で、「戦死者を弔う必要はない。死者に”思い”などない」という括弧付の近代主義で立ちゆくほど、人間は「バカ」にはなっていない、ということである。

 レヴィナスらが選択した道は「死者の声は聞こえるけれど、何を言っているのかわからない」というものだった。もっといえば、「死者は語る。けれど、それを代弁する権利は生きている何者にも与えられてはいない」というもの。内田さんは、これだけが「英霊の御霊に応える」国粋主義者(運命的に破滅に向かう人たち)に立ち向かう、唯一の思想的武器ではないか、といっている。

 こうしたレヴィナスの主張が、一般人レヴェルまでどこまで浸透したのかは不明だ。しかし、現実問題として、ヨーロッパではこの50年、大規模な殺戮は起きていない。チェチェンやユーゴの悲惨な戦争のことを思うと、こういう言いぐさは許されないのかもしれませんが、あえて言うなら、20世紀の前半と後半での死者の数の「差」はおそるべきものである。特に1次大戦と2次大戦の間のインターヴァルと、2次大戦以降のこの「小康状態」の長さの間には、何らかの思想的な遷移があったのだろう、と想像するほうが自然だと僕は思う。

 つけくわえるなら、20世紀の後半の「戦死者」を組織的に産み出し続けているのは言うまでもなく「あの国」であり、世界の「戦死者」の大半を、「あの国」がまかなっている、といってもいい。そして重要なのは、それは昔からそうだったわけではない、ということだ。

インディアン戦争や南北戦争、あるいは第1次、第2次戦争があったのせよ、やはりアメリカが世界一の「戦死者」大量生産国になったのは2次大戦以降であり、それまではその役割を主にヨーロッパが担ってきた、ということは忘れてはいけない。

 ともかく、こういった話を聞いて考えるのは、「だとすれば、やはりヨーロッパは、第2次世界大戦の弔いに成功したのだろうか」ということだ。さらにいうなら、「仮にヨーロッパが、第2次世界大戦の弔いに成功したのだとして、我が国の弔いはどうだったのか」ということも考えさせられるのだ。

 日本ではこの50年、周知のごとくほとんど戦死者が出ていない。しかしこれをもって日本がヨーロッパと同じく「弔い」に成功したか、といえばはなはだ疑問だ。

 日本にはまず、「死者の声が聞こえる」と言い張る人たちがいる。そして一方で、「死者の声など聞こえない」と言う人たちもいる。簡単に言うなら、前者が右翼であり、後者が左翼である。

 ここで不思議なことが2つある。1つは、左翼の人たちはアジアの戦死者の声については、「聞こえる」ないしは「聞こえるよう努力すべきだ」といい、右翼の人たちはそれに耳を貸さない、ということだ。この「ねじれ」が日本の徴候的な部分であり、岸田秀などが「分裂病」として指摘するところだと思う。

 そしてもう1つ不思議な点は、この両者とも、日本の多数派ではない、ということである。では日本の多数派とは何なのか?

 僕は、そういう意味での「多数派」が選択した思想的態度こそが、日本が第2次世界大戦の「弔い」として選択したものとして、指摘してみるとおもしろいのじゃないかと思っている。おもしろい、っていうと不謹慎だが、弔いに「失敗した」にしても「成功した」にしても、断言してしまうと気持ちはいいかもしれないが、それでは結局、先に述べた右翼左翼と同じようなことになってしまうと思うからだ。

 ここは「中腰」でぐっと粘るべきポイントかと思うのである。