セカチューと韓流

『世界の中心で愛を叫ぶ』読了。

なんでいまごろ読んだかというと、内田樹さんのブログで「片山恭一レヴィナスに影響を受けてセカチューを書いたらしい」という話(文春の田中さん談)が載っていたからだ。

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で、読み終わったのだが、まあ、レヴィナスの影響という話がほんとかウソかわからないが、ともかく「死者との対話」がテーマとなっていることはよくわかった。

私が気になったのは、小説全体を貫く「明るい空気」である。

何というのだろう。少なくとも「現代」の作家である綿谷りさとか金原ひとみとはかけ離れた空気だ。もっといえば、村上春樹以降、「時代の空気」というものを描き出せる種類の作家全員に共通する、今の世界の倦怠感のようなものから無縁な空気が、この小説を貫いているように感じたのだ。

考えているうちに、これは「バブル」に近いのではないか、という考えに思い至る。
う〜ん。しかしちょっと違うなあ、なんてことを同僚のYさんに話したところ、「なんていうか、ノスタルジックなんだよね」という見解をもらった。

なるほど。ノスタルジックね。そうかもしれない。それも、田園風景の、牧歌的なって感じじゃない、もっと「昭和」、それも「昭和末期」の、バブルを含む、世情は悪くなっているのに、どこか楽天的だったあの時代だ。

つまり、「昭和末期」という時代が、平成16年を迎えた今では、「ノスタルジック」になってきている、ということだろうか。

Yさんはまた、「セカチューと冬ソナって、なんか似ているんだよ」という鋭い指摘もしていた。

うん。たしかに似ている。

ということはあれだな。セカチューも冬ソナも、われわれの「昭和末期ノスタルジー」に訴えかけているわけだな。

言われてみれば、今の「韓流スター」たちは、どこか90年代バブル期日本の芸能人の雰囲気を持っている。独特の薄っぺらさ。ストレートな男前なんだけれど、石原裕次郎ほど馬鹿そうじゃない。何より、「自立しており、かつ充実した毎日を送っていそう」な印象を与えるのだ、彼らは。