『ハウルの動く城』鑑賞。

普通におもしろかった。ヤフーの掲示板なんかでは否定8肯定2くらいの割合で激烈な酷評が繰り返されているが、ざっと見たところあまり同意できるものはなかった。批判の論点はだいたい以下のパターンである。

①アニメーションのレベルが落ちた。
②ストーリーがわからない、説明不足である。
③テーマが陳腐すぎる。

こうしてみるとよくわかるのは、ハウルを酷評している人たちの“宮崎駿”への期待の大きさである。おそらく、辛口のコメントをしている人ほどその期待は大きかったのだろう。

期待が大きくなることはファンとして当たり前だけれど、気をつけなければいけないのは、期待の大きさはそのまま「こうあるべきだ」という理想像の固定化につながるということだ。

①〜③を1つずつ見ていこう。
 ①でいうアニメーションのレベルというのは、つづめていうならセル画の質と量ということだ。たしかにハウル〜では、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』でみられたような質の高いセル画はみられない(「城」をのぞくと、ということだが)。もちろん、最近のディズニープロダクションに見られるような圧倒的な量のセル画枚数もない。
 しかし、質が高く、大量のセル画を使用するということは、質の高いアニメーションとイコールではない。また、「質の高いアニメーション」というものが、そのまま映画の質、もっというなら「おもしろさ」を保証するということもない。

 むしろ問題は②③のストーリーに関する指摘である。①が「映画としてはおもしろかったんだけどアニメーションがね〜」というふうにすり替え可能なのに対し、これらの指摘は文字通り、映画そのものへの酷評に直結するからである。

 では、彼らはハウル〜に何を求めていたのであろうか? ②③の指摘をま逆にすると、「陳腐でないテーマを、わかりやすく、適度な説明を加えて展開させるストーリー」となる。

 なるほど。それができればすばらしいだろう。

 しかし、「すばらしい映画」「すばらしいアニメ」というのが必ずしもそのようなものであるとは限らない。「複雑で、難解な設定とストーリー展開」で高名な「イノセンス」や、「陳腐なテーマ」を繰り返す「セカチュー」や「冬ソナ」は、対象とする層がまったく異なるものの、十分な社会的評価を得ている。

 つまるところ、①〜③という感想は「宮崎駿ならこんなものをつくはずだ/つくらないはずだ」という期待値をソロバンにいれないと登場しないものなのではないだろうか。

 そういう批評があってもよいと思う。けれど、それがあまり豊かな批評であるとは私には思えない。

 つけくわえるなら、私はハウル〜観にいって興奮できたし、「城」とはなんぞや? と考えさせられたし、犬がかわいかったし、記憶には強く残る映画だな、と感じた。
 まだ上映中だからネタバレになるような考察はここではやらないけれど、別にそんな小難しいことを考えなくても楽しい映画だったと思う。

 もういっこ付け加えると、キムタクの声、悪くなかったです。残念!! 切腹