不快感と他者

「更生する自信ない」 「死刑望む」と小林被告

さて。

困った男がいたもんである。

こういう人間が存在するという時、われわれにできることはなんだろうか、と私は自動的に考えてしまう。同じように考える人は少なくないだろう。われわれはいったい、こういう「悪」に対して、何をなすことができるのだろう。

厳罰化。この方策がまったく無意味であることは、理論的にものを考えることができる人ならば誰でも思い至る。問題はおそらく、「罰」の意味が変容していることなのだ。

西欧社会の影響を受ける以前のアフリカ社会や南米社会では「呪い」が有効に働いていた。そのことは中嶋らも氏の『ガダラの豚』を読めばすぐに了解できる。「呪い」が聞くのは、「罪と罰」の観念が、もっといえば「社会通念」というものが存在するからだ。

「死刑望む」という発言をする人間がいる社会では、当然のことながら「社会通念」など崩壊している。そんなものは存在しない。すべての人間がスターでありうる社会では、常識は破壊すべき「檻」でしかないからだ。「常識」がとんでもなく軽くなってしまった社会。意外なようで、それがたぶん私たちの社会の実情だ。

「畏れ」や「忌み」で人の行動を律せないとすれば、何が人の行動を律するのか、という問いの立て方は正しそうだ。しかしそれは本当に正しいか? 例えば人の行動を律する何かを持ってきたところで、常にその外部は存在するのではないか。だとすれば、真に私たちが直視しなければならないのは、そうした「外部」の、存在の在り方ではなかろうか。

この男の言動が私にとって不快なのは、この男が私の世界に属していながら、私の世界の倫理に抵触しているからだ。もっというなら、「私の世界」は、「私の世界の倫理に抵触するような外部」をはらんだまま存在している。そして、私はそのことに目をつむっている。そのことが私の不快感を増幅する。

私は、この男の考えていること、言動の背景を想像することができる。そしてそれはおそらく、おおむね的を外していない。その意味でこの男の言動は、なした罪も含めてあまりにも凡庸だ。その意味で、この男はまったく「他者」ではない。

一方で、私はこの男を目にするのが嫌だし、耳にすることが不快である。この男が存在する、ということそのもの。そしてこの男を理解できるという事実が、私の精神を苛む。