”医療”に直面する

先週木曜日に実家の母親が緊急入院した。

父親から電話があったのが木曜日の午後19時頃。キックボクシングのジムにいた私は、20時頃に着信に気づき、嫌な感じをもった。父親が携帯に電話? どうしたんだろう。見ると、留守電も入っている。再生する。「お父ちゃんや、電話くれ」。すぐに電話をする。

「母ちゃんが入院した」「経緯は・・・それで今、病院におる」「今は鼻からチューブを入れて、腸のガスとか液を吸い出しているらしい」

だいたいの事情を聴くと、ほぼ腸閉塞(イレウス)だと思った。しかし、程度がわからない。あの母親が素直に病院についていったのだ。ただごとではないとは思うのだが、どれくらいただごとではないのだろう。意識はあるのか。「意識はある。けど、目に力がない」

わかった。とりあえず俺、明日帰ることにする。何ができるわけではないが、父ちゃん一人ではたいへんやろう。

帰宅。家の片づけをする。課長に電話するが出ない。とりあえず留守電を入れる。

金曜日、出勤して課長に事情を説明し、必要な事情を引き継ぎ、新幹線に乗って京都へ。京都へついたのは15時頃だった。

タクシーで帰宅し、父親とともに病院へ。母親を一目見て、その老けぶりに驚いた。俺の母親はこんな年寄りで、こんなにやせて、こんなに精気がなかったのか、と驚いた。俺は何も自分の母親のことを見ていなかったのではないか、と思った。もちろん、後からそれは7割方腸閉塞による全身状態の悪化であることはわかったのだけれど、その時はそう思ったのだ。

主治医に会う。内科医らしい。「イレウスチューブを入れて吸い出しています」「イレウスというのは・・・」。一般的な説明が続く。しかし、次の瞬間、何かがひっかかった。「今朝、そけい部からチューブを入れようとしたら、リンパ腫のようなものがありました。これは以前からありましたか?」「いいえ」「そうですか」「何か問題が?」「いえ、リンパ腫でなければ、ヘルニアかもしれない。だとしたらここで閉塞を起こしているのかも」

とたんに不安が襲った。単純なイレウスなら、イレウスチューブだけでもよいかもしれない。けれど、チューブを入れてもう24時間がたっており、それでも症状はさほど改善していないのだ。悪性、つまりはコウヤク性のイレウスを疑うべきではないのか。

「手術はしないのですか?」「とりあえず、患部、原因を特定したいと思っています」「癌などの可能性もある、と?」「そうですね、イレウスチューブの進み具合をみて、CTをとってみたいと思っています」「しかしですね、先生。もしコウヤク性だった場合、緊急手術が必要なのですよね?」「そうですね」「お話をうかがっていると、かなりソケイ部のヘルニアが原因で、コウヤク性のイレウスを起こしているのではないか、と。いえ、素人考えなのですが」「いえいえ。そうですね。たしかに。では、外科の先生に相談してみましょう」

外科医がやってくる。触診と、簡単な問診を繰り返した後、外科医は「やりましょう。とりあえずソケイ部ヘルニアを疑って開き、原因がそこになければ、大きく開いて調べることにします。数値もよくないし」といった。

3時間の手術の後、出てきた外科医が切り取った腸を見せてくれた。やはりソケイ部ヘルニアによる、カントン性のイレウスでした。手術は成功です。

喜ぶ父親。そして、その直後に腹を立てる父親。「あの内科医、わしらが押さへんかったら、外科医に相談せえへんかったんちゃうけ。そんなんおかしいやろ」

そういわれると、業界人の1人として一言もない。けれど、医療を担っているのは俺や、父親は他の多くの人たちと同じ、ただの人なのだ。間違えるし、調子が悪い時もあるし、だいいち自分の肉親でもないのだから、俺たちほど必死であるはずがないのだ。彼らが持っているのは限定的な専門知識であって、神のごとき判断力ではない。

「患者中心の医療」という言葉が言われて久しいけれど、その言葉の持つ重みを知っている人はそれほど多くはない。俺だって、先週までは知らなかった。

現在術後3日。便も出て、母親は自分で歩けるところまで回復した。神様にはとても感謝している。神様は、疑問を口に出すことを許してくれた俺や父親の身体に、また、その言葉を受け入れた内科医(←藪の疑いあり)に、外科医の腕に、そして何より、順調に回復する母親の身体に宿っている。神様には、とても感謝している。