「回復」という物語

少し沈んでいた心身の状態が、何かのきっかけで「元に戻る」ということがある。

最近の私の場合では、先週の日曜日に無理を押して聴きに行った師匠のライブがそれにあたる。すこぶる心身の調子が悪くて、予定は空けていたものの「どうしようか」と直前まで迷った挙げ句、「どうせ家に居ても沈み込んでいるだけで何もしないのだろうから」と腰をあげたのが良かった。まさに「LIVE=生」の力をいただいた気がする。

沈み込んでいた心身が「元に戻る」=回復、とは、しかしどういうことなのだろうか。

元に戻る、という以上、「元」が良い状態であったことは間違いないと思うのだが、心身の状態が悪い人というのはだいたいが「生まれてこの方、いいことなんか1つもなかった」といった語りを行うものである。そういう人には、当たり前だが回復の物語は訪れない。戻るべき場所がない以上、「回復」などありえない、というわけである。

しかし、ここまで考えるとちょっと首をひねりたくなる。「生まれてこの方、いいことなんか1つもなかった」のであれば、いいことなんか1つもない「今」が、どうしてこの人にとって受け入れにくいものであるのか、ということだ。そもそも、1つも「いいこと」を体験していない人に「いいこと」とは何か、ということがどうしてわかるのだろうか。

てなことを考えてみても、結局の所、私たちは経験的に「回復」という物語を採用している。それがいずれ訪れるものとして捉えているか、自分には訪れないものとして捉えているかの違いはあれ、「回復」という物語を持たない人間に出会うことはほとんどない。

(未完)