公人としての小泉純一郎(くん)


いわゆる知識人で、小泉純一郎に高い評点をつけている人を昨今目にしたことがない。


小泉劇場」だ「大衆煽動」だと、とりあえず彼を批判しておくことは、「知識人」としてのポジショニングの材料となっているように思う。


ただ、よく考えてみると、もし彼の政治が「劇場型」だとすればそれに踊らされたのはほかならなう我々国民だし、彼が政治的に実効性がないとすれば、それは彼を選んだ我々の失策でしかないのだ。


そういうこととは別に、僕は以前から、小泉さんのある側面を、世間があまり指摘しなくなったことが気になっている。


それは、小泉さんが徹底して「公人」である、ということだ。「変人」と呼ばれることはあっても、「公人」が強調されることは少ない。しかし、小泉さんというのは、昨今珍しい「公」の人なのであり、そのことが、自民党代表戦の頃までは、小泉さんという人を表わす重要な構成要素だったと僕は記憶している。


彼は一政治家として、政(まつりごと)の場に「私」を持ち込まない。これは、昨今の若手政治家の中で希有なことではなかろうかと思うのだ。


誤解してほしくないのだが、僕は別に「公人だからすばらしい」とか「私利私欲がないから善人だ」と言っているわけではない。


政治というのは、基本的にはアウトプットがすべてである。だから私利私欲にまみれていても、世の中がきちんと回ればすばらしい政治家だし、聖人君子であっても成果を挙げられなければ退任するのが真っ当だ。そして、その意味では小泉さんのなしとげた業績は、さほど評価に値する物ではないと思う。まあ、いいところプラスマイナスゼロといったところか。


僕が言いたいのは、良い悪いという次元を超えて、小泉さんという人は「公」を優先させる、「政治家」気質の人物なのだ、ということだ。


商人は金を追い求め、職人は技術を追い求め、武道家は強さを追い求める。


同じように、政治家は政を行うこと、ひいてはそれをなしうる権力を追い求めることに情熱を燃やすのが本懐であるはずだ。


しかるに、昨今の政治家のほとんどは、(最終目標として)金を追い求めているように見受けられる。


もちろん、金は力になりうるし、力は政を動かすことができるだろう。


けれど、それはあくまでも、権力のための金であり、政のための金でなくては本末転倒なのだ。


小泉さんや、辞めてしまった野中広務さんなどは、そうした意味で、古典的な「政治家」だったと僕は思うのだ。



まあ、だからそんなやつに権力を持たすのが危ないんだといえばそのとおりなのだが、どうして小泉さんが「公」の人であり、総理になって2年以上が過ぎているにもかかわらず、その側面に関しては曇りがない、ということを誰も言わないのだろう、ということが気に掛かったのである。