北朝鮮の核実験と子どもの国


北朝鮮が行った核実験に絡んで、あちこちのニュース番組が特集を組んでいる。

当然だ。ワールドワイドに見ても、イランの核保有以上に危なっかしい国の危なっかしい試みであるし、これまでの危なっかしい試みからさらに一歩、決定的な一歩を踏み出した感のある、大きな事件だと思う。

しかし、どう考えてもこの事件と改憲や軍備問題を同列に論ずることは間違っている。以下、その理路を記してみたいと思う。気に入らないところがあればぜひとも炎上させてやってくれたまえ。


北朝鮮の核保有について


北朝鮮が核を持つとどうなるのか。


現実レベルで一番恐ろしいことは、やはり放射能汚染だろう。管理がずさん(という報道がしばしばなされる)北の軍事施設で、長期間にわたって核戦力を保持するうちに事故が起る確率というのは、それほど低くないと私は思う。(テポドンの飛び方を見ていると、特にその思いを禁じ得ない)


次に、北朝鮮が核を戦略的に用いることの現実的脅威についてだが、これは考えるだけナンセンス、というものだろう。核兵器は国際社会においては恫喝兵器に過ぎない。有効な交渉カードではあっても、有効な戦略兵器とは言い難い(だから、開発から50年以上たっているのにまだ2回しか実際には使用されていない)。


そして、北朝鮮がそれを恫喝的に用いる相手はわが日本ではなく、アメリカしかありえない。(だいいち日本に核兵器を撃ち込んだら、そのまま北朝鮮放射能汚染を被ることになる)


もちろん、アノ国の、アノ人の気が違ってしまった場合は、この限りではない。が、注意していただきたいのは、そういう場合はどのような防衛策も無意味である、ということである。自衛隊国防軍にしようとも、核軍備をしようとも、徴兵制をしこうとも、アホの一撃に対しては無力である、ということは肝に銘じておかなくてはいけない。


いずれにしても、北朝鮮の核保有というのは、軍事的な脅威というよりは、環境問題である、というのが私の見解である。


北朝鮮という国について


一方、核保有ということ以前に、「そのようなこと」に手を出してしまう北朝鮮という国はいかがなものなのか。あれは叩いておかなくてよいのか、という議論があると思う。


こちらについては、正直私はたいした材料を持っていない。ただ、どう考えても隣の国に乗り込んで叩きに行く、という行為が賢い選択のようには思えない。


私は第二次世界大戦前のヨーロッパ諸国の宥和政策のようなものが有効だ、と申し上げているのではない。目先の損得よりも、今かの国を軍事的に制圧しておいたほうが、後の果実は大きいのではないか、という現実的な勘定をしている人が、この国に少なからずいるのだろう、ということも理解している。


私が申し上げたいのは、改憲をし、アメリカとともに周辺国に攻め入るという選択と、北朝鮮という愚かな国家の脅威にいかに対処するのか、という問題はまったく別次元の問題だ、ということである。


戦争は手段ではなく、政治的選択である。
戦争であれ、外交であれ、ある政治的選択は、そのまま結果に直結している。


もっと直接的に言おう。


北朝鮮に攻め入る、という選択は、向こう30年から50年、かの半島の負の遺産(いままで金一家が築き上げたものと、これから日米が築け挙げようとするもの)を、われわれが一手に引き受けましょう、という宣言にほかならない。


私は、そんな愚かな政治的選択の優先順位が、利にさといはずの日本において上位に位置している理路がいまひとつ理解できていない。


それとも、我が国の国民はいつのまにか、耽美主義者に舞い戻ったのだろうか。


美しく死のう、か。


冗談じゃないな。