自分らしく、と簡単にいうけれど


自分らしく、と簡単にいうけれど、「自分らしく」ってのはそう簡単ではない。

まず、何が自分らしくなのかよくわからん、ということもあるし、
どういうときに自分らしくあればよいのかもわからなかったりする。

いつも自分らしく、ということがいいことなのか、悪いことなのか。
もし、自分らしくがよいのか悪いのか、ということが状況判断によるのであれば、それは自分らしいのからしくないのか、という次元の異なる問題もある。


で、ここ最近考えていたことで少しブレイクスルーがあったので備忘録がわりに書いておこう。


まず、自分が「こうだ」と、芯から納得できることを行うこと。これは「自分らしく」であろうし、「よいこと」であるように思う。まずは、そのように考える。


そして、そういう「芯から納得できること」をやるために、我慢すべきこと、スルーすべきこと、目を瞑るべき場面というのが、必ず現れるが、それは、我慢してもかまわない。「芯から納得できること」をなすためならば、それは「自分」を損なうものではないはずだからだ。


次の段階として、そうした「芯から納得できること」が、周囲から評価されるか否か、という問題がある。


これは、実はけっこう厄介な問題だ。そもそも、間違いなく周囲から評価されるようなものごとであれば、そもそも自分が「こうだ」と芯から納得できること、などという認識にはならない。誰にとっても納得できるものごとに取り組むのは、誰にとっても苦であるはずがない。「芯から納得できること」などと考えるのは、それが必ずしも周囲の評価を得にくいものであるからだ。


一方で、「芯から納得できること」が、まったく周囲の評価を得られないとすれば、それは辛いことであるはずだ。なぜなら、自分が「芯から納得できる」という地点にいたるためには、その物事が、程度の差はあれ社会貢献、集団に還元される性質を持っていなければならない。他人が喜ぶかもしれない、いや、他人が喜ぶからこそ、自分自身も「芯から納得できる」はずだからだ。


ここで思考はジレンマに陥る。ここには深刻な矛盾がある。


けれど、この矛盾は、解消不能な矛盾だ。とりあえずは、これを受け入れるところから始めなくてはならない。

周囲からの評価を度外視して、自分のなすべきこと、芯から納得できることに取り組む。結果として、周囲の理解を得られるなら、それはそれでよい。周囲の理解を得られず、孤立したとき。そのときに、自分が取り組むものごとをどこまで信じきることができるか。信じきれるものに、すべてを投げ出すことができるか。

それが問題である。僕にとっても、あなたにとっても。