公開児童虐待の記憶

10月11日、世界ボクシング評議会(WBC)フライ級タイトルマッチ12回戦は東京・有明コロシアムで行われ、チャンピオン・内藤大助(宮田)が挑戦者・亀田大毅(協栄)を大差の判定で破り初防衛を果たした。

今日で2日がたったが試合中の暴力行為や、それをセコンドである父の史郎、兄の興毅が指示した映像が地上波で流れたことを受けて、JBC日本ボクシングコミッション)も亀田一家への厳重制裁に向かって動いていることが明らかとなった。結果、今月に予定されていた興毅の次戦もお流れとなったようだ。

亀田家が無謀なマッチメイクと反則行為を繰り返していたことでボクシング競技を傷つけたことについては、ここでは繰り返さない。おそらく、亀田家のメディアでの取り扱いは今後、180度手のひらを返したようにバッシング、あるいは忘却、あるいは排斥へとシフトするであろう。後始末、である。


ここで私は、一人の目撃者として、あるいは当事者として記録を残しておきたい。それは、この国のメディアと、われわれ国民が、社会の底辺に生きるとある一家を食い物にして、しゃぶりつくしたという、後ろめたい罪の記録である。


大毅はもちろん、興毅のマッチメイクと試合も「限りなく黒に近いグレー」に彩られてきた。ファン・ランダエタとの第一戦ばかりが取りざたされているが、それ以前に世界ランキングを挙げていく過程で行われたマッチメイクの数々は、買収、あるいはそもそもランキングそのものが怪しげな色をもった相手とばかりだった。また、試合中にも、故意かどうかはともかく、明らかなローブローが見過ごされるなど、問題は多かった。その「挙句の果て」としての、ファン・ランダエタとの一戦であった。


さて、どうしてそんな無茶な横車が通ったのであろうか? われわれは、そこに、亀田家をプッシュし続けたTBSの影響力を思わずにはおれない。そもそも、軽量級のボクシング界は、ジャパンマネーなくしては成立しない。あるいは国内に目を向けても、ボクシングで儲けようと思えば、地上波の資金力に頼らざるを得ない。ボクシング関係者は、TBSの意向に逆らえる状況ではなかったことが想像される。

TBSは、デビュー前から、この大阪の恵まれない一家を追った。史郎氏が、学校にも行かせず、マンツーマンで息子を指導するサマを、「美談」のパッケージをつけて売り続けた。

さて、ここで注意しておくべきことがある。1つ目の「虐待」のことについてだ。

史郎氏の教育方針について、賛否両論はあるかもしれない。

しかしながら、法治国家であるわが国の基準から明らかに逸脱する要素が亀田家の「教育」にはあった。そして、そのことがほかならぬ認可事業者であるTBSの電波に乗って、「美談」として語られたことである。

もっとも法的に明白な「虐待行為」は、三男を義務教育である中学教育を受けさせなかったことであろう。指導に来た児童相談所院を、史郎氏は「人のうちのことにかまわんといてくれ!」と遠ざけた。ばかな。かまうのである。義務教育は、「教育を受けさせる義務」である。史郎氏はこの時点で法的な枠組みから逸脱していたのだ。

誤解のないように申し添えておくが、私は、史郎氏が法的、あるいは世間的に逸脱した教育を行っていたことを非難したり、あるいは否定しようとしているわけではない。そうではなくて、TBSを中心としたメディアが、それを「アリ」だとして、放送し、それを商売の種にしていた、という事実を指摘しておきたいのである。

ここで、2つめの「虐待」の前兆がかいまみえる。

「亀田物件」に脈アリとみたTBSは、じょじょにエスカレートする。
ボクシングのルールと、伝統をゆがめてでも、亀田物件に乗っかった。
そこには「アンチもファンのうち」という計算がすけてみえた。
視聴率=金さえ稼げれば、それがどんな評価であってもくそくらえ、そういう意識がかいまみえた。

脈アリの物件に集中的に投資するのは、拝金主義者の常であるが、TBSもその例にもれなかった。

彼らが引っ張り出した「広告塔」は実に豪華だ。

みのもんた
木村拓也
明石屋さんま

ほかにもたくさんいるが、このビッグネーム3人の名前を挙げれば充分だろう。

念のために書いておくが、彼らのようなビッグネームが、足並みをそろえたように「黄金の・・・」を亀田家の次男に、時を同じくして贈ったという事実を、「私的な行為」と見るのはあまりにもピュアすぎる見方だろう。

広告屋、メディアの強い意思が感じられる行為だ。

「これを売るのだ」

という強い意志がアリアリと表れた瞬間だった。



さて、ここで2つ目の虐待について述べよう。

亀田家の無謀なマッチメイクや、横車を押すような判定が成立した影には、「亀田物件」で1円でも多く儲けようという「大人たち」の思惑があった。

逆にいえば、そういう思惑なしには、亀田家は、妙なスタイルで世界を目指し、多くの場合散り、ほんのわずかの場合に栄光をつかむ、ボクシングの歴史に数多いる、場末の「ボクシング一家」に過ぎなかった。

極端にいえば、われわれの知る「亀田家」というのは、TBSをはじめとしたメディアが、多額の先行投資を繰り返しながら作り上げた「亀田家」という物件であり、事実として、アクチュアルな存在としての亀田家の人々とは何の関係もない虚飾であった、ということもいえるだろう。

ともあれ、足掛け2年にわたって、TBSとメディアは、そのように作り上げた「亀田家」という物件で大もうけをしたわけだ。

今、亀田家には逆風が吹いている。いかれた父親のもと、大言を吐き続けた一家が、一度の失敗でその地位から転げ落ちようとしている・・・・・・というのは、本当に一面的な見方で、今、生じている真実の姿の、ほんの一部しか表現できていないと思う。

暴落しはじめた株券を投売りする金満投資家の姿を見過ごしてはいけない。

中身のない企業価値を膨らませ、バブルを作った広告塔たちのことを忘れてはいけない。

亀田一家は、主体ではなく、商品である。その商品は、フタを開けてみれば粗悪品だったわけだが、だからといって商品そのものを責めても始まらない。商品を作った人間、宣伝した人間、売った人間は誰か? ここでじっくりと追い詰めていくべきではないか。



亀田一家に目をつけ、商品として育て、売り続けたTBSと各種メディア。その宣伝戦略にまんまと乗っかった芸能人、とりわけみのもんた、さんま、木村拓也。それから、もっとも良識を示さねばならなかったはずの、元王者をはじめとした、ボクシング界の有力者たち。とりわけ、ファイティング原田、鬼塚、畑山、赤井秀和らの罪は思い。

もちろん、そこに「視聴率」という金を提供し続けたのは、ほかならぬ我々である、ということも忘れてはならない。


そして、何よりも忘れてはならぬことは、「商品」としてしゃぶって、しゃぶって、しゃぶりつくされたのは、ほかならぬ亀田一家である、ということだ。

・興毅
・大毅
・和毅

の三人は、庇護者であるはずの史郎氏の意思のもと、「商品」としてメディアに出荷され、われわれ国民によってしゃぶりつくされたのである。(もっとも、史郎氏も「商品」としてメディアに出荷されたのであるが、そこは自業自得というやつで)

われわれは、未成年である彼ら三人を虐待しつくし、そこから金を絞りつくしたのだということを、ここであらためて銘記しておこう。



たしかに、このたびの出来事は、直接的には亀田一家に責任があるように見える。

しかし、それなのに、亀田を責め立てるメディアに対して、猛烈な違和感が沸くのはなぜなのか?

有責なのは、むしろ我々であり、その自覚をまったく持たぬメディアに対して我々が怒りを抱くのは、我々が有責であることを、ほかならぬ我々自身が知っているから、ではないだろうか。