情報と情報化の違い

http://blog.tatsuru.com/2008/02/05_1118.php

内田樹先生の今日の日記がおもしろかった。

情報と、情報化の違いについての、養老先生のお話からの展開である。

情報と情報化の違いは、内田先生のブログの冒頭の説明が簡潔でわかりやすいので引用する。

情報化というのは「なまもの」をパッケージして、それを情報にする作業のことである。

例えば、獣を殺して、皮を剥いで、肉をスライスするまでの作業が「情報化」だとすると、トレーに載せられて値札を貼られて陳列されたものが「情報」である。

身体技法を学ぶときも、ここを勘違いしてしまうと地獄(魔境)なのだと思う。

甲野先生も、岡田さんも、山中先生も、自分の身体が可能にした「なまもの」としての技術を、かなりアクロバティックなプロセスを経て、「情報化」されている。

添え立ちにしても、波の下にしても、急ブレーキの原理にしても、ARP理論にしても、それがわれわれのもとに届くときにはすでにして「情報」として届いている、ということを忘れてはならないのだと思う。

こうした「パッケージングされた情報を学ぶこと=学びである」、という思考は、世間はもちろん、スポーツ界や、あるいは武術を学ぶ人たちにすら、蔓延しているように思う。

「何かができる、できない」「上手い、下手」といった言い方の背景には、非常に多くの場合、誰かがパッケージングした「情報」の後ろ盾がある。それを基準にするから、できた、できない、うまい、へた、という言い方ができるわけだ。

しかし本来、学びのプロセスの大部分は、実は「情報化」にある。「なまもの」を情報化していくこと、これがあらゆる動物の中でも、人間に特徴的な学びのプロセスだ。

たとえば、動物には、情報はあっても「情報化」はない。だから、馬は走ることはできても卓球はできない。猿の身体能力がいかに高くても、剣は振れない(もちろん、猿廻なんか無理である)。

偉大な先人たちが残してくれた「情報」あるいは、リアルタイムで見せてくれる「情報化」のプロセスは、私たちに大きなヒントを与えてくれる。しかし、もし私たちが自らの身体をとおしてなんらかの「情報化」作業を行なわず、その情報を情報としてストックしておくだけならば、そんなものはゴミと同じことだと思う。

拙くてもいいから、どんな人も自らの持ち場で、自らの手による「情報化」にいそしむべきだ。

楽家であれば作曲でもいいし、奏法の工夫でもよい。そうやって情報化したものが仮にオリジナリティの高いものであれば高い評価を受けるだろうけれど、別にそんなことに期待する必要はない。情報化のプロセスそのものが、その人の学びのプロセスであるのだから、その時点でその行為は100%「報われている」のだ。

周囲からの賞賛や対価なんていうのは、人生において「おまけ」「飾り」である。やること(情報化していくこと)そのものの熱が、人生の醍醐味・・・!!(@赤木しげる

卓球であれば、フォアハンドも、バックハンドも、ドライブも、あるいはYGサービスであれチキータであれ、それがそのように呼ばれた時点で「情報」である。

それを学ぶな、とは言わない。先にも述べたように、先人の足趾をたどることは、このうえないヒントになるはずだからだ。一人っきりで努力して10年かかることが、先人に学ぶことによって1年で学べる可能性はある。けれど、その学びが、その人の手による「情報化」のプロセスを経ないのであれば、寸詰まりの、つまらない試みにしかならないだろう。

学びとは「創造する」ということであり、情報化というのはそのために欠かせない、もっとも大切なプロセス、あるいは「創造」そのものなのかもしれない。