「難しい」と「易しい」
所沢ARPにて、Fさんからバックハンドのトップスピンサービスを教わる。
バックハンドのトップスピンサービスをビシッと決めるのはなかなか難しい。
クロスも難しいけれど、ストレートはさらに難しい。
で、Fさんにいろいろコツを教わる。「僕もストレートは難しい難しいって思っていたんですけど、あるとき、゛待てよ、ほんとは難しくなんかないんじゃないか゛って思ったんですよ」
そういって、Fさんはいろいろコツを教えてくれた。
もちろん、それを教えてもらったからすぐにできるようになる、というものじゃないんだけど、Fさんの話を聞いていて、なるほど、と思ったのは「難しい」というのは、頭の中にしかない、ということだ。
何かが「難しい」とすれば、その原因がある場所は「何か」ではなく、必ず100パーセント自分である。
情報が足りないか、思い込みが取れていないか、何かしらそれをうまくやるのに必要な条件が整っていないから、何かが「難しい」と感じるのだ。
そして重要なことは、何かを「難しい」と捉えている心こそが、しばしばその何かを致命的に難しいものにしている最大の要因となっている、ということだ。
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何かを「難しい」と感じたまま取り組んでいると、泥沼にはまってしまうことがある。
なぜなら、「難しい」ということの実態は、そのほとんどが、単なる「認識不足」の産物だからだ。
もし、神の目をもって現実をそのまま、あますところなく認識することができれば、「難しい」は存在しない。せいぜい、可能か、不可能かだけだ。
逆に言えば、安易に「難しい」と口にするのは、いささか傲慢だということだろう。難しいか簡単かを真に正確に評価するには、神のごときあまねき認識力が必要なのだから。
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サービスでも、フォアハンドでも、フットワークでも何でもよい。もしあなたが何かを「難しい」と感じたなら、「難しい」「易しい」という評価が頭に浮かばなくなるまで、徹底的に観察されることをお勧めしたい。
自分や、他人のプレーを、とにかく観察し、認識する。あなたの持つ「画素数」を10000倍アップさせることができれば、もはや「難しい」とは感じないだろうし、そうなればその「何か」は、遠からずあなたのものになるはずだ。