「時間の未知性」ということを考える。

まあ、本来考えるまでもなく、時間という未知である。

明日何が起こるかなんて誰にもわからない。いつ死ぬかなんてわからない。明日になったら村上春樹の小説に出てくるような女の子と恋に落ちているかもしれない。誰にもその可能性は否定できない。

しかし、こうした時間の未知性を毀損するようなあり方というものは存在する。と、いうよりも私たちは多くの場合、時間の未知性を毀損するようなあり方を好む。

例えば「時刻表」というものがある。これは、次の電車がいつ来るのか、その電車は何時ごろ来るのかということを一覧表にしたものである。これがあるから私たちは、目的地にたどりつくおおよその時間を予測できるし、それにしたがって約束をとりつけることができる。とても便利なものだし、なかったらとっても不便だ。

でも、ちょっと考えてみればわかるけれど、本来、次の電車が来るかどうかなんて、誰にもわからない。まったくの未知のことであるはずである。少なくとも「蓋然性が高い」という以上のものではない。さらに、ここからが非常に大事なことなのだけれど、私たちは、時刻表通りにことが運ぶことを確信しているし、確信したがっているのである。

学校に入れば、卒業のことを考える。就職すれば、毎月の給料のこと、年に1度のボーナスのこと、なかには退職金のことを考える人間もいる。これらの志向はすべて、「時間の未知性を毀損する」ベクトルに向いている。現代人にとって「当たり前の感覚」は、なぜかほとんど、このベクトルなのだ。

しかし、実はこうした「時間の未知性を毀損する」ベクトルに向かうことは、人間を本質的な形で損なっている。「すべては決定している」「何をやってもしかたがない」というのは、究極的に時間の未知性が損なわれた状態であり、比喩的に言うなら、「時計の止まった」人間のあり方である。

これは、つらい。おそらく、統合失調症うつ病者のほとんどが「時計の止まった」日々を送っている。私たちはまるで、望んで病気になろうとしているかのようだ。

「次の瞬間に何が起こるのかわからない」というのが、時間が本来的に持つ未知性である。未知性が毀損された時間感覚の中では、すべては空間的比喩の中に展開される。未来は、迫ってくるものとして、過去は遠ざかっていくものとして。