ライブドア対フジテレビではないけれど、どうも世の中、二項対立に陥ってつまらないことになるケースが少なくない。ポスト構造主義が「二項対立じゃいけない」って言い出してから何年たってるんだっての。

 でも、そういうケースの渦中にいると、本人の意思とは無関係に、二項のどちらかに編入されてしまう。僕らの世代に多い保留癖のある人間は、多かれ少なかれそうした二項対立へのアンチテーゼとして保留をするのだけれど、その戦略はあまり有効ではなかったりする。

 音楽への批評でも同じことだ。ほめるのか、けなすのか。高く評価するのか、低く評価するのか。け、いったい何様だというのだ。そんな二項対立的批評なんか、いまや誰も読みたがらないだろう。
 他の誰でもない「私」が引き出した作品の価値は、原理的に世界で1つだけのものだ。そこからいかに豊かで、独自の価値を引き出せるかが、その人間の批評性を担保する。作品と人、そしてさらに別の作品、別の人をつなぐ結節点となりうるような価値。それは批評におけるリゾームだ。
 音楽を聴くという作業は、2次方程式ではない。変数の数は数限りなく、僕らはそれぞれのやり方でその変数を埋める。ほかの誰もが導き出したことのない解を僕らはそれぞれに引き受ける。それが音楽を聴くということ、鑑賞するということだ。すべての聴き方、すべての生き方が祝福されるべきだ。弱者を救済している場合ではない。