10日、12日と連続で、介護士の岡田慎一郎さんにお会いした。

岡田さんは、甲野善紀さんの古武術の術理を中心とした、身体技法の工夫を介護に取り入れている介護士さんだ。年もまだ若くて、私とそれほどかわらない。

体験させていただいた技は、長座の状態から立ち上がらせるもの、背臥位から起こすもの、端座位から車いすへの移乗など、実践的なものが多い。しかし、そのそれぞれが「おぉっ!」という身体的な驚きに満ちた技術だったと感じた。

古伝の武術をわれわれが学ぶことの意義の1つとして、この身体的な驚きがある。思えば、私たちの日常生活や、その延長としてある各種のスポーツには、こうした身体的な驚きは存在しない。いや、まったく存在しないといっては語弊があるかもしれないが、少なくなっている。もしかすると、そうしたものを組織的に排除しようとする、無意識的な圧力がかかっているのかもしれない。

土岡卓球スクール(ジョイフェロー@京都)に入門したばかりのころ、師匠である土岡コーチの動きに私は圧倒された。インターハイをうかがう高校生相手に、コーチはスリッパ履きで練習相手を務めていた。あの精妙な動きに触れたからこそ、卓球は、私にとってそれまで投げ出してきた野球や剣道とは異なる、特別なスポーツになったのである。

だから、甲野先生との出会いは、私にとって2度目の、「身体的な驚き」との出会いだったということができる。もちろん、誰の、どうした動きに身体的な驚きを感じ、憧れるかということには個人差がある。男女差もある。同じモノに感じ入る必要はない。というよりもむしろ、ここでは個人差こそが重要なのだと言い換えても良い。その人が、かけがえのないその人だけの感じ方で「身体的な驚き」を感じること。それこそが古武術をはじめとする身体技法を学ぶ意義であるし、それ以外のものであってはならない。甲野先生が、いわゆる派閥を嫌うのも、そうしたことに関係があるのだろうと思う。

そうした意味では、岡田さんの介護技術は岡田さん個人の驚きに裏打ちされたものとして、純粋で、率直な技術である。そして、そのような個人的な感動から産み出された技術が、ある種の普遍性を持ちうるところが、古武術を介護や、スポーツに応用していくことの妙諦であろうかと思う。