たしか先週だったと思うが、テレビ番組「たけしの本当は怖い家庭の医学」に出ていた女子バレーボール選手の話が気になった。

 この番組は、毎回いくつかの疾患を取り上げて、ゲストの芸能人のリスクファクターを並べ立て、その危険度をサカナにトークで盛り上がるという趣旨のものである。この回は、脳血管にかかわる疾患で、どれくらい頭に衝撃を受けたことがあるかということがリスク因子となる、といった文脈だった。プロレスラーの高山選手や、レーサーの片山右京選手などのエピソード(彼らは当然のことながら、頭を強く打つエピソードに事欠かない)が紹介された後、女子バレーボールの某選手のエピソードが紹介された。それが、「私も中学高校時代、監督に毎日のように殴られていました。気を失うまでなぐられたこともありますよ」というものだったのである。

 テレビを見ながら思わず「はあ?」と声が出てしまった。

 もちろん、私だって、そういう現実がある、ということは聞き知っているし、他のスポーツでもそういうことは行われていた。そんなことはわかっている。
 問題は、プロレスラーが試合で殴られたり、レーサーが大事故を起こしたりといったことと同じ文脈で、中学生の部活動の指導(練習、ではない、指導なのだ)を語るこのバレー選手の感性と、それを受け入れてしまう周囲の空気である。

 中学生の部活動はいうまでもなく、教育活動の一環だ。そこでの暴力は、ボクサーが殴られるのとはまるで異なる意味を持つ。私は一概に、教育における暴力や暴言、叱咤に意味がない、と考えているわけではない(たぶん、あまり効果的ではないだろうと思うけど)。しかし、仮に意味があったとしても、それは高山選手がPRIDEのリング上で殴られていることとは訳が違う。

 ことは、人間の尊厳の問題である。
 殴られることを覚悟せずにリングに上がる人間はいない。が、バレーボール部に入る部員は、殴られることを覚悟してはいないだろうし、覚悟する必要はないように思う。

 それともう一つ。このエピソードの語り口には、もう1つ言外のメッセージとして、「それだけ厳しい練習だった(=だから、オリンピック代表にまでなれた)」というものが含まれている。
 これについては、断固として否定したい。厳しい訓練、厳しい練習が時としてすばらしい結果に結びつくことを否定したいのではない。「厳しい指導」という名で行われる暴力と、「本当に厳しい練習」の内実の間には、何の結びつきもないということを申し上げたいのである。

 イチローでも松井でも、中田英寿でも、彼らの活躍の影には必ず信じがたいほどの努力がある。しかし、それらは必ずしも「つらい」「苦しい」の字で飾られるような、ネガティブな時間ではなかったのではないか、と私は思っている。成長したい、強くなりたい、上手くなりたい、そういう思いで満たされる時間というのは、彼らのような人間にとって、多少の負荷はかかりつつも、楽しい時間であったはずなのだ。
 そして言うまでもなく、そういう「時間」には、暴力の入り込むすき間などどこにもないのだ。