暴力
あまり汚らわしいので書きたくもないのだけれど、
伊田広之というフェミニストが霊山・大峰山に登ろうと地元住民に出した意見書が、ネット住人から激しいバッシングに遭っている。
詳しくは伊田氏の日記を参照していただきたいのだが、彼の言わんとすることは要するに、「私たちはなぜ女人禁制なのか教えてほしい。議論の席についてほしい」ということだろうと思われる。
彼の質問状が持つ醜悪性についてはすでに内田樹先生が指摘しているのでおいておくとして、私がひっかかったのは、彼が「暴力」として指摘しているものについてである。
彼は「世の中は暴力に溢れています」と嘆いている。
彼の言うところの「暴力」とは、おそらくは、「対話を求めたのに対話に応じない」ということを指しているものと思われる。
なるほど、それは暴力の1つかもしれない。
しかし、「求めない相手から対話を強要されること」は暴力ではないのだろうか?
ストーカーに対してまともな返答をしないことは、「自衛」ではないのだろうか?
いや、伊田さん、待ってくれ。私は何もあなたがたが「ストーカー」だと言いたいわけではない。そう取る人も少なくないとは思うけれど、まあ、私自身はそうは思っていない。
私が言いたいのは、好きでもない相手からの対話を拒絶する権利を奪われたら、どこに「自由と民主主義」が残るのか、ということだ。
あなた方は、自分たちの質問状が「暴力的なものではない」ということを信じているのだろう。「穏和な、対話の席に立つために必要なもの」だと思っているのかもしれない。
けれど、それをそのように受け取らない人がいる、ということをあなたがたは認めないのだろうか? 「こんな失礼なことを言ってくるやつの話なんか聴きたくない」とシカトを決め込むことは、社会人としては未熟かもしれないけれど、人間としてやっていけないことではないように思う。
むしろ、質問状を出した能動的な主体はあなたがたなわけだから、もし本当に対話の席に立ちたいのなら、その質問状が、どれだけ相手の感情を害したのか、そこに思いを至らせるべきではなかろうか。
いや、もうやめよう。どうせ伊田君はこんな文章には耳を貸さないだろう。