中沢新一を読んで考えたこと

を、書く。中沢新一が言っていること、ではなく、彼の著作を読んで、私が今考えていることを書く。できる限り論理立てず、思うところを箇条書きにする。



・近代資本主義、国民国家、そして一神教。これらは発生した時代も違うし、成長した過程や、根をおろした地域も重なり合いながら、異なっている。しかし、これらは「非対称性」という同じ根、原理を持っている。


・日本の、東京に住み、企業に勤め、給料をもらい、消費生活をしている私が近代資本主義、国民国家のくびきから逃れることは困難だ。しかし、最後の一神教に関してはとりあえずのところ、その触手は私の魂には及んでいない。それは国民国家、近代資本主義という媒介を通して、私の肉体を縛っているに過ぎない。


・環境問題に関する予測には非常に恣意的なデータの選択があり、公になっている言説は、いずれにしてもおおよそ科学的とは言い難いものである。しかし、だからといって環境問題そのものが無問題かするということはない。地球環境が将来的に危機に瀕するか否かという問題は、地球環境と人間が共生していくというテーゼには、本質的に無関係なのだ。


・地球関係と人間が共生していくというテーゼが重要性を帯びるのは、つまるところ私たちが地球に生きているからである。それは国家や社会、家族といったテーゼが私たちにとって大切であるというのと同じコンテキストにおいて、私たちにとって重要なのだ。この点は非常に重要であり、混同してはならない。


・近代資本主義、国民国家、そして一神教が一体となって起こしている運動、とりわけ近代資本主義が惑星規模で展開している運動は、人間に破滅的な影響を与え続けている。そして、この「破滅的な影響」は、かつて人類の歴史に存在したことがないような質と規模で生じている。


・近代批判、資本主義批判、国家主義批判、あるいはそのカウンター運動を構築しようとするものは、まずこういった前提に立つべきではないか。つまり、それらが持つ本質的な悪徳と、現状において生じている悪徳とを、程度の面でも、質の面でも区別することがまず必要だ。


・そのうえで、中沢新一の戦略は、これらの原理に対抗する、カウンターカルチャーを打ち立てることなのだろう。それは芸術人類学、対称性人類学と呼ばれることになる。


・僕はなぜかこの運動に可能性を感じている。NAM原理運動や地域通貨運動、古くはフラワームーブメントやヒッピーたちがなすことができなかった、「天蓋への亀裂」を、この運動は達成するのではないかという期待を感じている。


・僕がなぜ、これまでの運動に感じなかった期待を、この運動に寄せるのか、その理路ははっきりしない。強いて言えば、勘のようなものだ。