仏教の源流
手塚治虫の『ブッダ』に出てきたエピソードで、昔からどうも気になるものがあった。それは飢えた虎に自らの身体を捧げる、ブッダの前世のお話だ。究極の自己犠牲。そして、これこそが仏の慈悲である、とそこには書かれていたように思う。
多くの仏典に、枝葉末節を変えながら登場するこのエピソード(捨身飼虎という四字熟語もこれが起源となっている)だが、僕はどうも納得できなかった。素人ながら、10年以上仏教に関心を持ってきた自分にとって、仏教の大きな幹を占める「空」の思想と、このエピソードがどうにも相性が悪いように思われてならなかったのだ。
空はあらゆるもの、ことへの執着を捨てろと説く。だから、このような自己犠牲は、「自己への執着」を完全に絶つことに成功した人間にしかなしえない、という意味で非常に仏教的なエピソードだと考える人は多いと思う。まさに「空」の実践じゃないか、と。
けれど、僕はそう感じなかった。「空」を極限まで推し進めれば(実際、竜樹などはこれを究極に推し進めている)、そうした自己犠牲すら、捨て去るべき執着となりうる。だから、「空」の究極形はむしろ親鸞的な「悪人正機」のような考え方にこそあるのではないか、といった考えを持ってきた。
ところが、最近中沢新一さんのカイエ・ソバージュシリーズを何冊か(1,2,5を読了しました)読んだところ、このエピソードと仏教の間にあった溝(僕の理解にとっての溝)が埋まってくる実感を持てました。
人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)
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一番大きな気づきをもたらしてくれたのは、仏教もやはり、民俗宗教的背景を持つものであるという、考えてみれば当たり前の事実でした。カイエ・ソバージュⅡ『熊から王へ』終章「「野生の思考」としての仏教」では、その考え方が詳しく述べられています。
〜ここで忘れてはならないのは、ゴータマはインド人ではなかった、という事実です。
ゴータマ・シッダルダはヒマラヤ山麓の小国の王子として生まれています。このクニは本当に小さなクニでした。サーキャ族というモンゴロイド系の民族によって立てられたこの王国は・・・(『熊から王へ』p.207)
そう。ブッダはインド人ではない。アーリア系の帝国に征服された、モンゴロイド系王国の王子だったのです。帝国内の異邦人。つまりは、キリストとまったく同じ立場であった、ということが言えるでしょう。
中沢さんが指摘しているように、ブッダの教えの内容と、ブッダ自身の非インド的な出自の関係についての論考は余り見られません。実際、ブッダの理説は、当時隆盛を誇っていたウパニシャッド哲学と比肩する、強固な論理性を持っていました(だからこそ、冒頭の「自己犠牲」に僕は違和感を感じたわけです)し、民族宗教的な泥臭さが感じられない洗練があります。
しかし、本書の中で紹介されている宗教学者・渡辺照宏氏ははっきりと、仏教はブッダが初めて説いたものではなく、非アーリア民族がヒマラヤ山麓地方で古くから信じていた宗教に基づくものだ、といいきっています。
冒頭の「自己犠牲」のエピソードは、中沢氏がカイエ・ソバージュシリーズの中で取り上げている、環太平洋(現在のアジア・シベリア・南北アメリカ大陸)に残る神話群と、強い類似性を見ることができます。それはつまり「食べ物」は、「狩人」が主体的に獲得するものではなく、食べ物となる動物が、主体性を持って「与える」ものである、という「対称性思考」(動物と人間、狩人と獲物が対等であり、交換可能な立場にいるという考え方)に基づいたものです。
仏教は、こうした環太平洋的神話群の歴史を引き継ぎ、それを洗練させる中で「空」を産み出した・・・このように考えると、冒頭の自己犠牲のエピソードは、僕の中ですっきりと、仏教思考の枠組みの中に収まるのです。