負荷を全身に散らすために
中野の日中卓球センターで練習。
生業のほうは滞っているのだが、そこは目をつむって(笑)。
日中卓球センターでの練習は4回目。自分で言うのもなんだが、めきめきと上達している。
もちろん、高校までの「遺産」を、細胞から掘り起こしている分もあるから、素人が上達するのとスピードが違うのは当然なのだが、それを差し引いても、最近の自分の技術の進展には、自分自身もキャッチアップが追いつかずにいる。(こんなふうに楽器演奏が上達したらどんなにすばらしいだろうか)
2、3日前に、古武術つながりのN氏から受けた「治療」と交流が、今日の練習では一気に出たところがあったと思う。
とにもかくにも、どの技術を行うときでも、いかに身体の「遊び」をとるかに意識を集中(拡散)する。
甲野(善紀)先生がしばしば技の解説で使われる、「身体の遊びをとる」という言葉は、なかなか奥が深い。すべてを説明できてしまう一方、何も説明していないのと同じという、使う人によってどうとでもその価値が変わってしまう、危険な概念だと思うのだ。
例えば。これもN氏からご教示いただいたことだが、卓球というスポーツは、ラケットを持った右手に強く意識が集中してしまいがちである。
ぼやっとしていると、「でしゃばり」の腕はすぐに仕事をやりたがる。腕や肩は極度に緊張し、肩や腰に無駄な遊びが生じる。結果として、結節点・支点となった肩や肘に負担がかかる。「自然」にラケットを振っているとそうなってしまうから、現在、多くのトレーナーはボールの威力を高め、故障を減らすために肩や肘の筋力を高め、あるいはストレッチでほぐそうとする。彼らの関心は肩・肘にかかる負担に向かう。
これは、なかなか抜けがたい罠である。しかし、一度、腕を今やろうとしている仕事から解放してみると、いかに無謀な負荷を、肩や肘が一手に引き受けてきたかが理解できる。
この日の練習は、その負荷を少しずつ、少しずつ、全身に散らしていくことに集中して行った。「集中」と書いたが、これは「集中」であると同時に「拡散」していなければいけない。なかなか難しいのである。「拡散」することに集中する、と言えばいいかもしれない。ともかく、腕や指が「仕事」から解放されるようにもっていく。
「身体の遊びをとる」という意味を、僕は今、こんなふうに解釈して取り組んでいる。例えば卓球の場合、腕の遊びをとっただけではどうにもならないのである。というより、ある特定の部分の遊びをとる、なんてことは程度の差はあれ、誰だってできるのだ。難しいのは、激しい動きを行いながら、適度に遊びをとった身体の状態を維持する工夫である。
とりあえず、今日はここまで。ふう、道場がほしいなあ(爆)