民主主義終末期といじめ

naonao7772006-11-16


・いじめ
・自殺
・自殺予告

この1〜2週間、うんざりするほどこれらのワードが含まれた報道を目にしてきた。
どうせマスコミの飯の種に過ぎないのだし、騒げば騒ぐほど、長引くだろうという思いもあって無視してきたのだけれど、あまりにもずれた話が多いので、いじめられっ子としてきちんとした見解を書いておきたいと思う。


ここで書くことがまったく無視されてしまうのか? あるいは炎上してしまうのか(時節がら、こちらのほうが怖かったりするのだけど)、僕には想像もつかない。それくらい、メディアや、職場の立ち話に登場する「いじめ」を巡る言説空間は、僕が知るそれとはかけはなれている。


何よりも違和感を覚えるのは、いじめについて「強いものが、弱いものをいじめる」という前提が、あたかも共有されているかのように見える、ということだ。無論、その言葉尻だけでは正しいとも、間違っているともいえる。けれど例えば11月23日付の週刊新潮で、池田晶子氏が書いている以下のような認識は、信じがたいぐらいずれている。


強い者はいじめられないから弱い者をいじめる。それよりもより確実にいじめられるように、大勢で一人を標的にする。


池田氏は、子どもの社会では何をもって「強い」「弱い」が判定されると考えているのだろうか? 彼女のエッセイの冒頭を読むと、その認識のズレはさらに著しいことがわかる。


〜リアリティがないのである。私が子供の頃には、そんなことはなかった。おとなしくて、勉強も冴えなくて、今ならいかにもいじめの標的にされそうな子も、普通に皆とやっていた。男の子が好きな女の子をいじめる。これはあった。お下げ髪を引っぱられたり、カエルをかざして追いかけられたり、ヘキエキしたことがあったっけ。


ううむ。ここまでずれまくっていると、どこから突っ込んでいいのかわからなくなるが、少なくともいえることは、彼女は「強い」「弱い」ということが、個々の人間に内在する性質だと考えている、ということだ。


もちろん、そういうものがないとは言わない。けれど、こと、いじめに関していうなら、「強い」「弱い」はパワーゲームの結果でしかない。内在的な性質(内気、気弱)などはどうでもよいのである。パワーゲームの敗者は、その内在的な性質をネタにいじめられることになるわけだが、それが理由でいじめられるわけではない。いじめられる理由、それは強いていうなら、パワーゲームに敗れた、ということ以外には存在しない。僕はそう考えている。


さて、ではパワーゲームとは何か、ということだが、これは単純。多数派、ということである。これが我が国特有の現象だとかいやそうじゃない、といった議論はここでは省略。少なくとも、僕が考えるいじめは多数派の論理の中で執行される。


単純な例を挙げよう。「俺はお前のことが嫌いだ」「俺はお前のことが気持ち悪いと思う」「俺はお前としゃべりたくない」。これは、どれほど口汚くののしろうと、暴力的に迫ろうと、いじめにはならない。これがいじめになるには、こうした個人的な嫌悪感が、共同体の共通認識とならなくてはならない。そう、「みんな、お前のことが嫌いだ」と。


ここで重要なのは、いじめが成立する条件は、そうした嫌悪感そのものが共同体の共通認識となることではなく、嫌悪感の存在の正当性についての共通認識が存在する、ということにあることだ。「○○君は気持ち悪いから、無視されている(私は気持ち悪いとは思わないんだけど)」。この程度の共通認識が存在すれば、いじめは十分に成立する。けっこう低いハードルだといえる。


さて、そのようにいじめの成立要件を考えるなら、これがわれわれの社会のいたるところに散見されるしろものである、ということがよくわかる。例えば同じ週刊新潮の50ページには「亀田興毅」のbrogについて、以下のような取り扱いがなされている。


亀田興毅君が11/14にbrogに書いた、いじめ問題についての日記の趣旨はこうだ。


・いじめが社会問題になっている
・ワイドショーで自分のことに文句をつけているやつのやっていることはイジメだ。
・テレビで平気で俺のことをいじめているやつが、イジメはいかん、とかしらじらしいことをいうな


亀田君の所業に関しては、過去の日記でも散々文句を書いているのだが、この件についてはほとんど異論はない。テレビのワイドショーで亀田に対してなされていたのは、上の定義でいえば「亀田は間違っている」ということについての共通認識を得たうえで行われているいわば「公開処刑」というやつでしょう。(テレビなんだから、それくらいの共通認識がなければ、批判なんかできませんからね)


これに対して記者氏は、コラムニストの勝谷誠彦氏の発言を引用する。


「大体イジメっていうのは、トイレとか校舎の裏とかで人に分らないようにやるもんですよ。僕はテレビで堂々と批判しているんだから、文句があるのなら俺の前に出てきて正々堂々と討論しよう、と言いたい」

さらに、「イジメに詳しい教育評論家」(←なんだそれ?)という尾木直樹氏の発言も引用。


「イジメというのは反撃できない相手をいたぶること。話題にされ批判されるのが宿命のプロボクサーと、一般のイジメを一緒にするというのは無知も甚だしい」

と亀田ブログを笑い飛ばしたそうである。


最後にこの記者氏、やくみつる氏の、亀田君も虚勢を張っていて、今は不安がいっぱいなんじゃないか、という発言を引っぱった後に、


そうだったのか興毅クン、つい笑ったりしたオジサンを許しておくれ。

と結んでいる。


さて、ここで亀田クン(笑)に対してなされていることは、イジメそのものではないか、と僕は思うのだがいかがだろうか? イジメには欠かせない「○○さんもそう言ってたもん!」という、判断を共同体の共通認識に求める姿勢も存分に発揮している記者氏は、なかなかイジメの才能がありそうに思う(単にバカなのかもしれないけど)。


いずれにしても、この手の多数派による少数派イジメというのは、テレビを中心としたメディアにあふれかえっている。と、いうより、この20年ほど、テレビはそれ以外に視聴者を引きつけるコンテンツを持っていないのである。


多数決、という民主主義の根本にある基本システムには、イジメという強烈な副作用がある。


そんなことは、おそらく民主主義の黎明期には「常識」に登録されていた、平明な事実であったのだろうと思う。民主主義の徹底は、少数派を疎外する。その副作用を、昔の人はいかにして回避していたのだろうか。そういうことを、少し知りたくなった。



最後に、これを読んだいじめられっ子の君。そういうことなんだよ。だから、もし君がイジメの苦しみから脱出したかったら、共同体から抜け出るしかない、と僕は思う。僕が幸運だったのは、いじめを受けていた頃に、まったく別のコンテキストで動く共同体に所属していたことだった。そこでの日々が充実していれば、1つの共同体から完全に疎外されても、何とか生きていけるものなんだ。


今、君が所属している共同体の中で、君がイジメられなくなる、ということはおそらく難しいし、もしうまくいったとしても、それはそれほどよいことではないと思う。というのは、君がイジメられているのは、君に原因があるのではなく、君が所属している共同体が、どこかに生け贄を求めているからだから。君がイジメられなくなれば、その歪みは、どうしたってその共同体の中で代償される。それはおそらく、君にとっても辛いものになるはずだ。


できるだけたくさんの、別の原理で動く共同体に所属しよう。それが、生き延びる道だと僕は思う。