「伝えたい」と「伝える」の違い


第15回、廣木ジャズスクール発表会@相模大野ラシェット、演奏してきました。


反省点の多い発表会だった。チューニングの甘さ、サウンドしなかったトリオ、コピーをしっかりやっていなかったこと(ほかのみんなはずっとまじめにやってるんだな、と思ったこと)、など、細かい点をあげれば反省点は数限りなくあるのだけど、たぶん、一番大事なことだと感じたことについて書く。


合奏はコミュニケーションだ、とよく言われる。自分の言ったことに、相手が反応する。それに対してまたこちらが、と次々に反応を返す。それが産み出すグルーヴに観客が反応する・・・その無限ループこそ、音楽を推進していくパワーだ。決して、リーダーシップをとる演奏者が、共演者や観客をただぐいぐいと引っぱっていく(引きずっていく)わけではないのである。


と、言葉で言うのは簡単だが、このコミュニケーションということが難しい。そもそも、音楽である以上、言葉や目線、身振りの合図で何かを伝えるのは禁じ手といってよい。まあ、ほんとに「やっちゃいけない」ことではないのだけれど、それは二の手、三の手なのだ。まず、第一に考えなければいけないことは、自分の楽器の「音」で、伝えなければいけない。


何を伝えるのか。「おい! 見失ってるぞ」「もっとでかい音だせよ」「ここで入ってきてくれないかな」「高音部が寂しいよ〜」「もっと強く!」「静かに、流れるように」・・・そう、ジャズコンボにおいては、楽器奏者はそれぞれが自らの「音」によって、オーケストラの指揮者のように「伝え」なければならないのだ。


昨日の僕には、「伝えたい」ことがたくさんあった。それが、身体から溢れ出そうになっていた。なぜ溢れ出そうだったかといえば、それは僕のギターに、表現力がなかったからだ。しかるべきタイミングで、しかるべきフレーズを、しかるべきトーンで出せば伝わるはずのものを、十分に伝えられなかった。伝えられなかった「思い」は、僕の身体を通して発散する。「あせり」として、「羞恥」として。お客さんは、そんなものを見に来たわけではない。


昨日のチューニングの狂いは、楽器表現者としての僕の「甘さ」を象徴的に表わしている。「伝えたい」と思うことは、「伝える」ことのスタートであっても、「伝える」ことそのものではない。


たくさんコピーをやって、音楽的素養・知識を深め、基礎練習をやって、楽器のコントロール能力を高める。


そうすることによって、「伝えたい」は、少しずつ「伝える」に変っていく。たぶん、そういうことなんだろうな。