「できない」の具体化①


「積み上げ型の学び」と「解体と再構築型の学び」


知識・知恵には学べば学ぶほど蓄積されていくものと、学ぶことによって自己解体・再構築を伴うものがある。ここでは前者を「積み上げ型の学び」、後者を「解体と再構築型の学び」と呼ぶことにしよう。


積み上げ型の学びとは、文字通り、知識を積み上げ、累積していくことを主たるプロセスとする学びのことだ。例えば英語学習であれば「pen」「man」などの単語を覚えていく学習がこれに相当する。学ぶ前と学ぶ前で、知識の総量が増加する。それまで知らなかった単語を10個余分に覚えること。こうした学びは「学び」という言葉で我々の多くが想起するものであり、受験勉強を初めとして、現代的な学びは、事後的であれ意図的であれ、こうした形を踏襲している。


一方で、我々は、「解体と再構築」を主たるプロセスとするような学びが存在することを知っている。それまでの人生で身に着けてきた知識の総体、体系を、一度完膚なきまでに破壊したのちに、まるで新しい人間に生まれ変わるかのような学びというものがある。武道における師と弟子の出会い、宗教における指導者と信者の出会い、いや、教師と生徒、スポーツ指導者と選手の間にすら、そうした学びがある。


無論、こうした2つの学びは、あらゆる教育場面において並列的・複合的に存在しており、分離不可能となっているケースも少なくない。しかし、そうした一般的な事実はさておくとしても、大きな流れとして、現代の教育が「積み上げ型の学び」偏重であり、「解体と再構築型の学び」が教育の場から失われつつあるという現状認識はそれほど奇異なものではないだろう。


徒弟制度が失われ、教師の聖職性が失われ、スポーツ指導者のパターナリスティックな指導が戒められるようになったいま、学びの場において、人の存在を根本から揺るがすような「解体と再構築」が生じなくなったことは仕方がないことだ。


私は別段、徒弟制度を復活させろとか、教師の聖性を取り戻せ、などという議論をするつもりはない。失われたものには取り戻せるものと取り戻せないものがあるが、聖性とか権威主義のようなものは、よきにつけ悪しきにつけ、一度失ってしまうと決して取り戻せないものなのである。


私が議論したいのは、「解体と再構築型の学び」が失われたこと、あるいはこれからさらに失ってしまうことが、人の学び・成長においてどれくらいの損失があるのか、ということ。もう1つは、権威や聖性が失われた後になってなお、「解体と再構築型の学び」を育てることは可能か、ということについてである。