技術としての視覚

 我々の網膜に映っているものすべてを、我々は「見る」ことができない。網膜には、眼前に広がる光景が、時間的にもすべて映っているのだが、我々の脳は、その中からほんのわずかな情報を取り上げ、さらにそれを加工し、抽象化したものを見ている。

 逆に言えば、そういう過程をたどらないと、我々は世界を知覚することができないわけだ。世界を、ありのままに「見る」ことはできない。

 しかし、その加工の仕方には無限の可能性がある、ということも同時にいえる。

 卓球のボールは未経験者には「見る」ことができない。それは、物理的なスピードのせいではない。未経験者の概念世界に、卓球のボールの動きが存在しないから「見えない」のである。高速で動くピン球の動きを捉えることは日常生活では必要ない。だから、未経験者に卓球のボールは見えないのである。

 経験者は卓球のボールを見ることができるようになる。しかし、そのことは未経験者よりも経験者のほうが「目がよい」ということを意味しない。というよりも、経験者であろうと未経験者であろうと、台の前に立てば網膜に映っている光景はまったく同じはずである。

 違うのは、脳の情報処理の仕方、その計算式である。経験者は、ピン球の動きを捉える計算式ができている。上手な人間は、より精緻な計算式を持っている。それだけのことであって、別に「目が良い」わけではないのだ。

 ここでポイントとなるのは、私たちはこうした「見る」という行為について、主観的には「脳」の作用だとは感じていない、感じられない、ということである。しかし、原理的に考えれば誰にでもわかるように、これは脳の働き、意識の働きなのだ。

 つまり、「見る」というのは、ラケットを振るのと同じ次元で、技術が介在する領域なのだ。これまでのスポーツ指導では、「見る」能力が可塑性に富んだものである、ということをあまりにも無視してきたといえるだろう。

 念のため、細く補足しておくと、私はここでビジョントレーニングだとか、動体視力の重要性を訴えたいわけではない。むしろ逆である。

 目がいいか悪いかはもちろん、ボールがどれだけ早く動いているかどうか、ということは「見えるか見えないか」を決定しない。見えるか見えないか、どのように見えるかは、脳の働き、意識の働きが決定するのだ。

 おそらくこのことは、聴覚でも、味覚でも同じだろう。われわれの感覚器は、どんな人でも捉えうるすべてを捉えている。その膨大な情報を、抽象化し、再構成する、われわれの意識に上ってこない脳のプロセスのみが、異なっている。そして、そこにこそ「感覚の技術」が存在しうるのだ。