意識と無意識の間で行われる何か

(6/27 mixi日記から転載)


・頭でわかる(理解する)ということと、意識する・認識するということは違う。学術的なレベルではなく、ここを感覚的にはっきり使い分けたいところだ。


・たとえば、飛んでくるボールの軌道や、耳に入ってくるメロディや和音の響きは「なんとなく」入ってくる。これが意識だ。


・一方で、それを「フォアクロス」とか「深いドライブ」、音楽ならば「Cm」「レドシド〜」といった具合に名づけていくことが、理解だ。


・理解は、もちろん大切だ。ただ、本質は「意識」のほうにある。理解は言ってみれば標本であり、時間性をはじめとしたややこしい要素がすべて割愛され、整理された情報を対象としている。うん、つまりは理解というのは「情報化」なんだね。


・しかし、卓球のボールを打つのも、ギターを弾くのも、「情報処理」ではない。どっちかといえば意識のほうだ。


・ん? しかしそうすると、意識と無意識の関係は・・・なんて考え始めるとややこしいので、忘れよう。


・たとえば、マイナーペンタトニックスケールが○○のコードのときに使える、という情報はアドリブのときに役に立つわけだが、この情報に基づいて行われたアドリブというのは致命的にダサいのである。


・情報は情報としたうえで、実際の演奏は、意識に浮かんできた音像を形にしていく作業である。その音像を多彩にし、しかもそれをジャストで音にしていくために、情報化は必要だし、修練も必要なのだが、実際に現場で行うのは情報処理ではなく、意識の出来事だということだろう。


・ボールを打つのも同じだ。情報化しすぎると、たとえばコースは見えるがボールの深さが見えなかったり、フォア−バックという二分法でボールを捉えてしまうようになる。これはあまり本質的ではない。


・ん? これってインナーゲームですね。セルフ1(自分)が行うのが「理解」「情報処理」で、セルフ2(自身)が「意識」「認識」ということだね。


・セルフ1の情報処理は、現場では常に、致命的な遅れに取り残されてしまう。その遅れを力技でねじ伏せてしまおうとする人が多い中、インナーゲームや武術、あるいはARPは、なんとか理解→意識へのシフトをもたらそうとしているわけで、それを厳密にいうなら、「意識と無意識の間で行われる何か」を題材にしたアプローチ、ということになるだろう。


・武術とは、「意識と無意識の間で行われる何か」である。・・・うん、かっこいいぞ(笑)