堂々と失敗すること

(6/27 mixi日記より転載)

堂々と、確信をもって失敗する、ということが大切だ。失敗を恐れる心がさらなる失敗を呼び寄せるということもあるが、とりあえず間に合わせのごまかしの塗り重ねで成功してしまうことのまずさについて、大人はもっと口にすべきだと思う。


勝ち組、負け組なる言葉が幅を利かせるような風潮が背景にあるのかもしれないが、とにかく勝てば官軍、負ければ地獄。まるでプロセスが問われない。この風潮は、確実に芸ごとの質を低めてしまう。


とはいえ僕は何も勝ち負けを問うなというつもりはない。道徳の話をしたいわけではない。僕がいましているのは、単に人の成長の話なのだ。


何かをしたいと思って、それができたり、できなかったりすることがある。それを成功・失敗と呼ぶこともあれば、勝ち負けと呼ぶこともあるが、いずれにしても、できないことができるようになる、ということがあり、やりたいと思ったのに結果、できないということがあるのが人生だ。


成功・失敗や勝ち負けは生きている以上、問わざるを得ないはずだ。問わなくていい、人類皆平等! 生きてればそれでいいじゃない? なんてことをいうやつは、自分の平穏な暮しがどれだけの血と苦痛と無念のうえに成り立っているのかということを、少しは省みたほうがいいだろう。


だから僕はとりあえず、そのあたりの道徳は問わない。問わないうえで、失敗・成功のプロセスを問わない風潮の危うさを思うのだ。



たとえば楽器を習う。基礎練習、課題曲を与えられる。当然、どうしても指がもつれたり、よい音が出ないポイントが現れる。


それをどう乗り越えて行くか。あるいは、どう向き合い、どこまで考え続けることができるかが、その人の成長そのものなのだが、まかり間違って「課題をクリアすること」が自己目的化すると、間に合わせの技術を身体に繰り返し繰り返しなじませていくことになる。


たとえば、「壁によじ登る」という課題があったときに、素手ではまったく登れず、とりあえず手近にあったスコップを壁に立て掛けると、とりあえず登ることができたとする。


壁に立て掛けたスコップはグラグラするから時折失敗する。しかし繰り返し練習していたら倒れなくなった。安定して壁に登れるようになった。
こういう「成長」に、何の疑問も感じない人もいるかもしれない。しかし、この「スコップ壁登り名人」は、ほかの壁では皆が梯子を使っていることを知らないし、仮に知ったとしても、「スコップ壁登り」になじんだ身体は、梯子を拒否してしまうかもしれない。


「いいんだ、俺はスコップでも梯子の人より早く壁に登れるから」と梯子を拒否している限り、彼は最初に登った壁より高い壁に登ることはできるようにならないし、ましてや梯子でも登れないような崖をロッククライミングで登っていくことなど思いもよらないだろう。


楽器演奏でもまったく同じ「笑い話」がしばしば起こっているのだが、当人はそれに気付かない。なぜなら、その人がもっとも拠り所にしている当のものが、その人にとっての最大の足枷となっているからだ。


「間に合わせの技術で成功することのまずさ」というのは、要するにこういうことなのだ。



どうしたらよいか、という問いのひとつの答えが、冒頭にあげた「堂々と、確信をもって失敗する」ということだ。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉がある。失敗は、それをごまかしさえしなければ、学びの宝庫である。失敗を器用に包み隠し、成功に見せかけるというのは生きていくうえではある程度必要かもしれない(私はけっこう得意だ)が、こと、学びのプロセスでは害が大きい。


率直に、ただ失敗することさえできれば、「失敗は成功のもと」は道徳でも教訓でもなく、シンプルな原則なのだ。