腕を振りたければ腕を振ってはいけない

(6/27 ミクシィ日記から転記)

ベトーヌングからアウフタクト、という話は昨年、フルーティストのmariさんから伺って分かった気になっていたのだけど、あんまり分かってなかったということが今日わかった。


ひとつのきっかけは日曜日の試合のとき、卓球仲間の晋悟くんから、「なおさん、フォアのときに身体が浮いちゃってますよ」という指摘を受けたことだ。そのときはタイミングの問題だと考えていたのだけど、昨日、mariさんとの電話でベトーヌング、アウフタクトのお話を聞いて、タイミングだけの問題ではない、と思い当たったのだ。


ベトーヌングは沈み込みで、アウフタクトは浮き上がり。前者を強拍、後者を弱拍という説明がなされることが多いのだけど(そしてそれは間違いではないのだけど)、こういう分析的な説明はしばしばことの本質から外れてしまう。


沈み込んでテークバックをとり、浮きあがりで打つ、ということ自体、僕のやっていたことに間違いはなかったのだが、問題は、「浮き上がり=打球」を、自分の意志でやろうとしていた、ということだ。


浮き上がりは、沈み込みの結果として自然に現れるものだ。きちんと沈み込めたなら、わざわざ自分の意志で浮き上がる必要はない。


僕の過剰な浮き上がりは、「より強く腕を振りたい」という欲望によってもたらされたものといえるだろう。「腕を振るためには、身体の沈み→浮きが必要だ」ということが真実であっても、「腕を振りたいから、沈んでから、浮き上がらなければならない」と考えるのは間違いだ。そのように考えた瞬間、「自然な浮き上がり」は消えてしまい、タイミングは致命的にずれてしまう。


これは、多くの日本人ジャズ奏者が「アフタービート」を誤解した事情に似ている。後ろに強いビートがあるからといって、後拍を大きな音で演奏するのはアフタービートではない。アフタービートでも前拍でベトーヌング、後ろ拍でアウフタクトという形は変わらない……というより、沈み込み→浮き上がりは自然の摂理なので、ただそれに従う以外にはないのだ。


ARP理論の打法も基本的に沈み込み→浮き上がりの繰り返しなのだが、これを脳からの命令で「沈み込んで、浮き上って」と意識的にやると大失敗になってしまう。(※思うに、これがARP理論にしたがって練習をして失敗する場合の、1つの大きなパターンだと思う。優れた理路は、その優越性のすぐそばに、大きな落とし穴をもっているものだ)


ボールが飛んで来て、それにラケットを合わせる。それを自然に行えば、自然と身体の沈みこみ→浮き上がり(ベトーヌング→アウフタクト)が生じる。おそらくこれが、山中先生がよく口にされる「調和」ということなのだ。


「腕を振りたければ、腕を振ってはいけない」


同じように、沈み込み→浮き上がりも、「打球のために」それを行なった瞬間、本来のエネルギーが失われてしまうのだ。


哲学的な話みたいだけど、これは極めて実践的な話だ。自分の中にある自然をいかにそのまま解放するか。そしてそれをいかに周囲と調和させるか。それが演奏でも卓球でも、大きな課題となる。

意識と無意識の間で行われる何か

(6/27 mixi日記から転載)


・頭でわかる(理解する)ということと、意識する・認識するということは違う。学術的なレベルではなく、ここを感覚的にはっきり使い分けたいところだ。


・たとえば、飛んでくるボールの軌道や、耳に入ってくるメロディや和音の響きは「なんとなく」入ってくる。これが意識だ。


・一方で、それを「フォアクロス」とか「深いドライブ」、音楽ならば「Cm」「レドシド〜」といった具合に名づけていくことが、理解だ。


・理解は、もちろん大切だ。ただ、本質は「意識」のほうにある。理解は言ってみれば標本であり、時間性をはじめとしたややこしい要素がすべて割愛され、整理された情報を対象としている。うん、つまりは理解というのは「情報化」なんだね。


・しかし、卓球のボールを打つのも、ギターを弾くのも、「情報処理」ではない。どっちかといえば意識のほうだ。


・ん? しかしそうすると、意識と無意識の関係は・・・なんて考え始めるとややこしいので、忘れよう。


・たとえば、マイナーペンタトニックスケールが○○のコードのときに使える、という情報はアドリブのときに役に立つわけだが、この情報に基づいて行われたアドリブというのは致命的にダサいのである。


・情報は情報としたうえで、実際の演奏は、意識に浮かんできた音像を形にしていく作業である。その音像を多彩にし、しかもそれをジャストで音にしていくために、情報化は必要だし、修練も必要なのだが、実際に現場で行うのは情報処理ではなく、意識の出来事だということだろう。


・ボールを打つのも同じだ。情報化しすぎると、たとえばコースは見えるがボールの深さが見えなかったり、フォア−バックという二分法でボールを捉えてしまうようになる。これはあまり本質的ではない。


・ん? これってインナーゲームですね。セルフ1(自分)が行うのが「理解」「情報処理」で、セルフ2(自身)が「意識」「認識」ということだね。


・セルフ1の情報処理は、現場では常に、致命的な遅れに取り残されてしまう。その遅れを力技でねじ伏せてしまおうとする人が多い中、インナーゲームや武術、あるいはARPは、なんとか理解→意識へのシフトをもたらそうとしているわけで、それを厳密にいうなら、「意識と無意識の間で行われる何か」を題材にしたアプローチ、ということになるだろう。


・武術とは、「意識と無意識の間で行われる何か」である。・・・うん、かっこいいぞ(笑)

堂々と失敗すること

(6/27 mixi日記より転載)

堂々と、確信をもって失敗する、ということが大切だ。失敗を恐れる心がさらなる失敗を呼び寄せるということもあるが、とりあえず間に合わせのごまかしの塗り重ねで成功してしまうことのまずさについて、大人はもっと口にすべきだと思う。


勝ち組、負け組なる言葉が幅を利かせるような風潮が背景にあるのかもしれないが、とにかく勝てば官軍、負ければ地獄。まるでプロセスが問われない。この風潮は、確実に芸ごとの質を低めてしまう。


とはいえ僕は何も勝ち負けを問うなというつもりはない。道徳の話をしたいわけではない。僕がいましているのは、単に人の成長の話なのだ。


何かをしたいと思って、それができたり、できなかったりすることがある。それを成功・失敗と呼ぶこともあれば、勝ち負けと呼ぶこともあるが、いずれにしても、できないことができるようになる、ということがあり、やりたいと思ったのに結果、できないということがあるのが人生だ。


成功・失敗や勝ち負けは生きている以上、問わざるを得ないはずだ。問わなくていい、人類皆平等! 生きてればそれでいいじゃない? なんてことをいうやつは、自分の平穏な暮しがどれだけの血と苦痛と無念のうえに成り立っているのかということを、少しは省みたほうがいいだろう。


だから僕はとりあえず、そのあたりの道徳は問わない。問わないうえで、失敗・成功のプロセスを問わない風潮の危うさを思うのだ。



たとえば楽器を習う。基礎練習、課題曲を与えられる。当然、どうしても指がもつれたり、よい音が出ないポイントが現れる。


それをどう乗り越えて行くか。あるいは、どう向き合い、どこまで考え続けることができるかが、その人の成長そのものなのだが、まかり間違って「課題をクリアすること」が自己目的化すると、間に合わせの技術を身体に繰り返し繰り返しなじませていくことになる。


たとえば、「壁によじ登る」という課題があったときに、素手ではまったく登れず、とりあえず手近にあったスコップを壁に立て掛けると、とりあえず登ることができたとする。


壁に立て掛けたスコップはグラグラするから時折失敗する。しかし繰り返し練習していたら倒れなくなった。安定して壁に登れるようになった。
こういう「成長」に、何の疑問も感じない人もいるかもしれない。しかし、この「スコップ壁登り名人」は、ほかの壁では皆が梯子を使っていることを知らないし、仮に知ったとしても、「スコップ壁登り」になじんだ身体は、梯子を拒否してしまうかもしれない。


「いいんだ、俺はスコップでも梯子の人より早く壁に登れるから」と梯子を拒否している限り、彼は最初に登った壁より高い壁に登ることはできるようにならないし、ましてや梯子でも登れないような崖をロッククライミングで登っていくことなど思いもよらないだろう。


楽器演奏でもまったく同じ「笑い話」がしばしば起こっているのだが、当人はそれに気付かない。なぜなら、その人がもっとも拠り所にしている当のものが、その人にとっての最大の足枷となっているからだ。


「間に合わせの技術で成功することのまずさ」というのは、要するにこういうことなのだ。



どうしたらよいか、という問いのひとつの答えが、冒頭にあげた「堂々と、確信をもって失敗する」ということだ。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉がある。失敗は、それをごまかしさえしなければ、学びの宝庫である。失敗を器用に包み隠し、成功に見せかけるというのは生きていくうえではある程度必要かもしれない(私はけっこう得意だ)が、こと、学びのプロセスでは害が大きい。


率直に、ただ失敗することさえできれば、「失敗は成功のもと」は道徳でも教訓でもなく、シンプルな原則なのだ。

長野での聖火報道について

今週末の「聖火騒動」について、一般的なニュースの扱いとしては、

聖火リレーの妨害が行われた
・愛ちゃんと鈞ちゃんが悲しそうな顔をした
・日本人の逮捕者が出て、中国人のけが人が出た

ということに終始していた。

私が見たなかでの例外は「サンジャポ」だった。
そこでは、沿道の中国人が、大使館経由で中国当局が意図的に送り込んだ人間だということが公然と指摘されていた。

日中記者交換協定というものがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E8%A8%98%E8%80%85%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E5%8D%94%E5%AE%9A

詳しくは上記を見てほしいが、「中国(大陸政府)について、不利な報道をしてはならない」という協定だ。

中国を嫌う人々は、この記者協定があるから、日本のマスコミは中国のことをまともに報道していない、とおっしゃる。

僕はこの見解には批判的である。協定があるのは事実だが、日本国内で中国に不利な報道がまったく行われていない、なんてことはない。むしろ、かなり偏って中国側に不利な報道が繰り返されているときだってある。もし記者協定が常に有効であれば、教科書騒ぎのときや、重慶でのサッカーの報道はどうなるのだ、という話だろう。

ただ、一方で、少なくとも今回の「聖火リレー騒動」の報道に関しては、おそろしいくらい中国に配慮した「偏向報道」となっていたことは間違いない。

たとえば、現地に参加したあるチベット支持者の方の日記は以下のとおりである。(ミクシィに参加していない人用に、文末に本文を抜粋したものを載せています)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=787996903&owner_id=2071143&comment_count=193&

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=788238433&owner_id=2071143&org_id=787996903&

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=788440554&owner_id=2071143&&mfre=1
(筆者の意志により無限に転載可能)

僕は、日本のマスコミの報道と同程度にしか、上記の日記を信用していない。ただ、上記の日記を読むのと読まないのとでは、ずいぶん印象が違うだろう。

もう一度、冒頭に戻ろう。

○日本の報道の概要

聖火リレーの妨害が行われた
・愛ちゃんと鈞ちゃんが悲しそうな顔をした
・日本人の逮捕者が出て、中国人のけが人が出た

上記の3点は「事実」である。

これに対してコメンテーターが訳知り顔で語る「悲しい出来事です」という言葉も、間違いではない。

でも、事実が「それだけ」であったとはとても信じられない。

サンジャポ」のなかで語られた、中国当局が動員をかけたという事実、それから、日記のなかにあるように、日本の警察がそれを保護しようとしていたという事実がもし本当だとして、それをマスコミが意図的に報じなかったとすれば、それはある意味で「チベット国内で弾圧が行われている」という事実よりも、我々にとっては重いことだと私は思う。

ひとつは、社会の安全弁であるはずの言論の自由が権力によって封殺されている(そのことすら、認識できない)ということ。

もうひとつは、そのことが、自国政府ではない、外国の主導によって行われているということ。

この2つが真であれば、事態はそうとうまずい、と言わねばならない。


ともあれ、上記の3つの日記については、ぜひとも読んでいただきたいと思う。意見を述べるのは、それからでもいい。



<以下、あるデモ参加者の日記>


世界最低の国、日本 2008年04月27日00:39

聖火リレー、行ってきました。
まず皆さんにお願い。
この日記を転載、リンクして頂いてかまいません。
動画3つまでしか載せれないため、
動画ありと書かれたものは僕のメインページの動画にあります。

4/26日を振り返ります。

早朝、善光寺へ向かった。
Mちん、Tさん、F君、Yちゃんと5人で。

町には何台もの大型バスが乗り入れ、中国人が降りてくる。
僕らがそれぞれ旗を作り、プラカードを作り、前日からカラオケボックスで寝ていたのに対し、
彼らは中国大使館から支給された巨大な旗と、チャーターバスで堂々登場した。

善光寺参拝が終わり、街中へ。
とりあえず聖火リレー出発地点へ向かった。
ここで日本とは思えない景色を目にした。

出発地点に、中国の旗を持った人は入場できるが、チベットの旗を持った人は入れない。
警察の言い分。
「危険だから」
じゃあ、何で中国人はいいんだ?
「......ご協力お願いします。」

は?
それやらせじゃん。
中国国旗しかない沿道って、警察が作ってるんじゃん。

その時の抗議の様子

この後TBSの取材が来た。
チベットサポーターの1人が、
日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナウンサーに聞いた。
アナウンサーは「は?勝手に叫んでれば?」
と吐き捨てて消えた。

街中に行くとどこに行ってもFREETIBETと叫んでいる。
そこに中国人が押し寄せ、罵声を浴びせてくる。


交差点で中国人と僕らが入り乱れた。
突然Mちゃんが顔面を殴られた。
僕は殴った中国人のババアを捕まえて、目の前の警察に言った。
「こいつ殴ったぞ!!」
警察は何もしなかった。

ババアが俺の手を噛んだ。手から血が出た。
警察と目が合った。
警察は何もしなかった。

ババアが僕の顔面を殴ってきた。
周りのチベットーサポーターが、
「おい、警察、現行犯だろ、捕まえろよ!!!!」
と言ったのに、
警察は何もしなかった。

これが抗議活動中じゃなかったら、普通にブチ切れて乱闘になってる。
でも非暴力を貫く為、ひたすら耐えた。

Mちゃんが1日かけて一生懸命書いたプラカードを、
中国人が叩き落とした。
拾おうとするMちゃん。踏みつける中国人。
「おい、てめー何やってんだよ!」と制止に入った。
2mくらいの距離に警察がいたが、何もしなかった。


街中いたるところで抗議合戦。
救急車が来たり大騒ぎ。
僕らはひたすら抗議活動をした。
(動画あり)

雨が降ってきた。
それでも誰も抗議を辞めなかった。
中国人がかたまってる交差点を、
Tさんと旗を振りながら渡った。
沿道の中国人は蹴りを入れてくる。
とても沿道に入れず、車道を歩いていた。
警察が来て言った。
「早く沿道に入りなさい!!」
は?今入ったらボコられるじゃん。
なんで日本人の安全を守ってくれないの?
「じゃあ、あいつらに蹴りいれるの辞めさせろよ!!」と僕は叫んだ。
警察は「ご協力お願いします」と言った。


雨の中、聖火リレーのゴール地点へ向かった。
何故か中国人とチベットサポーターに分けられた。
警察は、「後で聖火の方に誘導するから。」と言った。
嘘だった。
ゴールの公園の外の何も無いスペースにチベットサポーターは閉じ込められた。
聖火なんか、どこにもなかった。
目の前には警察が何十人も取り囲んでいた。
こんな場所じゃ、声すら届かない。
数百人のチベットサポーターは、泣きながら警察に向かって叫ぶだけだった。
国境無き記者団もこちら側に来させられていた。
代表がマスコミのインタビューに答えていた。
(裏から撮影した動画あり)

聖火リレーがいつ終わったのかも分からないまま、
土砂降りの中僕らは叫び続けた。
この声を、伝えることすら出来ないのかと思ったら涙が溢れてきた。
MちゃんもF君も泣いていた。
こんなのってあんまりだ。
せめて伝えて欲しいだけなのに。
この叫びを聞いていたのは目の前に並んだ警察だけだった。



チベット人の代表が弾圧の現状を訴えた。
涙が止まらなかった。
内モンゴルの代表が弾圧の現状を訴えた。
涙がとまらなかった。

伝えたい。ただ伝えたいだけなのに、国家権力によって封殺された。
悔しい。悔しい。

日本は最低な国だ。
平和だ、人権だと騒ぐ割には、
中国の圧力に負けて平気でこういう事をする。
警察を使って。

帰りに携帯でニュースを見た。
聖火リレーは無事終了。沿道は大歓迎ムード。」
聖火リレーで日本人5人逮捕。中国人留学生に怪我。」

僕は愕然とした。
この国のマスコミは終わったと感じた。

あの怒号は、
僕らが受けた痛みは、
彼らの悲痛な叫びは、
どこに反映されたのだろう。


警察によって意図的に中国人のみの沿道を作り、
そこをマスコミは撮影し、
中国人の暴力を黙認して、日本人を逮捕する。
これが日本のやることか?
ここは本当に日本なのか?
中国の旗を持たないと歩けない沿道って何なんだ?

この国は最低な国です。
チベット人は泣きながらありがとうと言っていたけれど、
僕は彼らに謝りたかった。
初めて日本人であることを恥じた。

帰り道、僕らは泣いた。


これが真実です。
僕は日本政府は中国以下だと思った。
弾圧にNOを言えずに、言いなりになって彼らの叫びを封殺したこの国は、もう民主主義国家ではない。

4/26日長野。
そこには言論の自由はなかった。
歩行の自由すらなかった。
中国人を除いて。


追記:どなた様も、転載の許可必要ありません。
報告だけしていただけると、反応が見れて嬉しいのでお願いします。
動画が消えたりするるみたいですが、また報告していただけたら何度でも載せなおします。
マスコミの嘘つき。大嫌い。
FREE TIBET!!

4〜6月のライブ案内

●2008年4/26(土)2nd

市橋由季トリオ@荻窪「アルカフェ」
http://alcafe.incoming.jp/
東京都杉並区荻窪5-21-10
03-3391-2046
時間:20:45-21:30
チャージ:500円
市橋由季(vo)、三堂寛史(g)、鳥居直介(g)

ボサノヴァボーカリスト、市橋由季さんのトリオです。


●2008年5/26(月)1st

市橋由季トリオ@荻窪「アルカフェ」
http://alcafe.incoming.jp/
東京都杉並区荻窪5-21-10
03-3391-2046
時間:19:30-20:15
チャージ:500円
市橋由季(vo)、三堂寛史(g)、鳥居直介(g)

ボサノヴァボーカリスト、市橋由季さんのトリオです。



●2008年6/1(日)11:00-18:00

廣木光一ジャズ・スクール 18th コンサート@沼袋「Organ Jazz倶楽部」
http://www.organjazzclub.org/
03-3388-2040
時間 open 10:30
1st 11:00〜
2nd 14:30〜
チャージ:1,500(通し・入れ替えなし)
出演:廣木光一ジャズスクール生徒(30名以上)
サポート:廣木光一g BAND 田中信正p 吉野弘志acb 千光士実ds

※超協力なサポートメンバーのもと、ギター、ボーカル、ベースなど、生徒がそれぞれの音楽世界を発表します。鳥居の友人で来ていただける方はメールをください。前日には出演時間がわかりますので、鳥居の出演順をお知らせします。

古武術卓球練習会情報

次回練習会は4月27日(日)。
次々回は5月24日(土)です。

詳細は、ホームページ↓にて。

http://www.geocities.jp/naosuke_t/takkyu02/ivent01.htm



古武術卓球研究会について

○趣旨
 
・競技スポーツとしての、卓球技術向上を追求する、同好の士の集まり、研究会。

・卓球界以外からの情報(甲野善紀先生の術理や、武術関連を含む幅広い身体運用法)にも幅広くアンテナを広げ、会員それぞれが抱えている壁や課題突破へのヒントとする。 ・あくまで卓球の技術向上・研究を第一目的とする。

・活動内容は、卓球の練習会(東京池袋周辺、その他にて開催)のほかに、武術関連その他の講師を招いての講習会、勉強会など。

http://www.geocities.jp/naosuke_t/takkyu02/index.htm